今すぐではありませんが、高校でも「スクール・ポリシー」を考えて、公表することになりました。充実した歩みと信頼をえるという点で、個人でも組織でも一定の「ポリシー」を持つことはとても大切なことです。個人で考えてみましょう。社会や物事は絶えず変化しますし、自分も変わっていきます。ですから、人生は「迷い」と「決断」の連続です。特に変化が激しい時は決断が追いつかずに、ずっと迷いっぱなしということにもなりかねません。西高生のみなさんもポリシーを持つということについて少し考えてみてください。
情報化社会では「情報」が宝物扱いされます。最新の情報が利益をもたらすことが多いからです。コメをスーパーで買うとする。A、Bの二つの店があって、いつもAの店が安いと思って買っていたら、最近ではBの店のほうが同じコメでも安売りしていることが分かった。この場合はBの店で買うようになるでしょう。新しい情報をつかんでいないと、いつまでも高いほうの店で買い続けることになってしまいます。こういう情報はできるだけ新しいほうがよい、ということになります。
しかし、たとえば、行動の指針、生きていくうえでの方針、といったものは、単なる「情報」では与えられません。たしかに、ネット検索をしてみると指針めいた情報も氾濫しています。行動のあり方について、あるサイトでは「行動はできるだけ早くすべきだ。機先を制するものが勝つ。」とされていて、別のサイトでは「できるだけゆっくりと行動すべきだ。急いてはことを仕損じる。」と述べられている。情報は刻々と変化します。状況によっても必要な情報は変わります。それに対して、指針や方針といったものは一本すじの通ったものでなければなりません。しばしば変わっては困るものです。人間関係の信頼も、その人の心の姿勢に大きなブレがないところに生まれてくるものだからです。
ところが、この「いかに生きるべきか」「どう行動していくべきか」という指針を考えることは至難のわざです。千変万化する世の中にあって、充実した人生を送るためにふさわしい自分のあり方を見つけ出すことは困難です。そこで支えとなるのが生きる知恵を伝えてくれている倫理的な「古典」です。
例をあげれば、日本では特に近世以降、「論語」があらゆる階層の人々の共通の倫理的な教養でした。けっして武士だけではありませんでした。たとえば、先日聴いた講演によると、幕末期の北河内の農村地域における寺子屋就学率は80パーセントに上っていたということです。今の全国の小中学校数は3万4000校ほどですが、近世末には寺子屋、「手習所」は7万5000ほどあったという説もあるそうです。日本人はそこで「論語」などをよく学ぶことで、しっかりとした生きる指針を身につけました。それが江戸の繁栄と近代に入ってからの発展に寄与したことはまちがいないでしょう。誠実、勤勉、思いやり、人間関係を大切にすることといった基本的な「徳」が指針として多くの人々に養われていたのですから。それに比べて現在はどうでしょうか。新しい情報獲得を得ることは必要ですが、そればかりでは生き難さが増すばかりではないのでしょうか。
自分のポリシーになりうる、生きる叡智に結びつくような質の高い「言葉」は時間をかけて考え、見つけ出していくことが大切です。それは個人でも学校のような組織でも同じだと思います。