26 体育の部 延期

 ここ数日、しょっちゅう天気予報を見てはどうだろう、何とか木曜日に開催したい、と思っていました。残念ながら、朝の7時半ごろからのどしゃ降りの雨のためにグラウンドのコンディションが競技不可まで悪化してしまい、また、生徒待機場所のテントの中のところまでぬかるみ状態になってしまったということで、本日は開催をせずに来週の火曜日27日に順延することになりました。学校としても苦渋の決断でした。保護者の方々をはじめ、関係していただいている方々にはご迷惑をおかけしたところもあるかと思いますが、降雨の時間帯が遅く、そこから担当教員と体育祭実行委員生徒が相談し、生徒の安全第一に様々なことをふまえて総合的に判断しましたので、ご了承いただきたいと思います。27日にはより良いコンディションで生徒たちに楽しい体育の部を経験させることができると信じたいと思います。朝の職員朝礼でも我々自身がまず気持ちをしっかりと切り替えて、ここからの教育活動をがんばりましょうと教員に伝えました。

 体育の部の報告を書くつもりでしたが、叶いませんでしたので、違うことを書きます。最近、再燃しがちの学校教育のあり方をめぐる議論についてです。

 コロナ禍のために学校教育のあり方が大きく変わり、対面での教育活動の要不要について様々な意見を聞きます。もともと学校教育については、「学校で学ぶことは社会に出てすぐに役に立つものではない。それに、そもそも学校に行かなくても生きていくのに必要な知識は自然と身につくものだ。」という考え方があり、それにICT活用の学校における必要推進の動きが重なって、そのような議論が出てきていると思います。テレビで有名な予備校講師が対面の不要性を述べているのを聞いて、違和感を覚えるとともに、やはり立場と教育に対する考えが私とは違うと思ったりしました。

 子どもも大人も生きているかぎり、いろいろな状況でいろいろな人やことから学びます。テレビのクイズ番組で有名企業名の由来を知り、大河ドラマで鎌倉時代の関東の御家人のあり方を知り、ニュース番組でウクライナ情勢を知る。近所の人から今日はどこそこのスーパーの野菜が特売だということを知る。海に泳ぎに行って、海水は塩辛いだけではなくてとても苦いということを知る。とにかく、学校以外でも我々は常に学び続けていると言えます。古典の時間に習う平安時代の僧侶の和歌よりも本日特売のスーパーについての知識のほうが生活にとっては大問題である。そうなのです、ものごとを学ぶのは学校だけはない、というのは事実ですから、それを前提としたうえで、なぜ学校というものが必要なのかということを考えることが大切です。

 そして、そのうえで、非対面での教育活動と対面での教育活動のメリット、デメリットを考えることが必要です。まず、ICT活用ありきではない、という点も重要です。これからの社会の状況を考えると、情報活用の手立てとしてICTを使えることは必須ですが、「情報」などの教科は別として、学校教育活動のなかでも「手立て」としてなじませ、習得させていくようにするのが必要です。

 決められた期間に組織的計画的に、つまり意図的に、これまでの人間社会における文化文明のエッセンスを学ぶのが学校です。自然に学ぶのでは、その機会がなかったりしてしまうかもしれないので、そうではなくて個々の学び手の可能性を信じて、知識や能力を習得させるのです。学校などがない時代には、子どもたちは親がしている職業以外の知識について学ぶ機会はほとんどなかったでしょう。それでは、身分や格差が固定されがちです。人間が平等で民主的な社会を形成していくうえでは、自然発生的に学べる以外の「知」が不可欠でした。そして、学校で学ぶ内容を活性化するためには、教員と生徒が一つの空気感のなかで時間を共有しながら、教えたり学んだりする関係を作っていくことがとても大事だと私は思います。

 よく考えて自分が発言した内容に教師や級友がどのように反応するか、それを直に感じとって、子どもたちは学んでいく。そうすることで、その「知」はしっかりしたものになります。陶器に火をいれたり、刃物に焼きを入れたりして固めますが、我々の知識や考えも空気感の感じとれる人間関係のある場所をくぐらせて確かなものにしていくことが必要なのです。授業にかぎらず、あらゆる教育活動を通じて、そうだと思います。大学の入試問題を解くために活用される知識の習得のみを目標とするのであれば話は別ですが、というのが私の考えです。

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