18日(金)の終業式の式辞の中で、コミュニケーション能力の話をしました。すると、その直後に、ある先生が私に声を掛けてくれました。今年の1年生(80期生)は、1学期の最初に国語の教材として「コミュニケーション能力とは何か」(内田樹)という文章を扱っているということを教えてくれたのです。しかも、その後、校長室まで教科書のコピーを持ってきてくれました。短い文章ですが、全文を書き写すのは芸がないので、私が理解できた範囲で一部を抜き出して、三丘生を思い浮かべながら感想を書きます。わかりにくかったらごめんなさい。
その文章は、こんなふうに始まります。
何年か前にフランスの地方都市に仕事でしばらく滞在した時の話です。スーパーに行ってマグカップを買おうと、レジに行ったらレジの女性店員に何か訊ねられました。なんとなく聞き覚えのある単語なのですが、意味が分からない。
意味が分からないので、筆者は何度か聞き返したけれど、遂には店員が質問することを諦め、マグカップを包みだしたそうです。どうしても気持ちが片づかない筆者はレジの上に身を乗り出して、ゆっくりと、「先ほど、僕に何を訊いたのですか」と問いかけました。すると、店員も噛みしめるように、ゆっくりと、「郵便番号を訊いたのだ」と答えました。筆者が、「なぜ、郵便番号を?」と重ねて訊くと「どの地域の人がどんな商品を買っているのか、データを取っているのだ」と答えたそうです。この出来事を受け、筆者は、コミュニケーション能力について語っています。
まさか、スーパーで郵便番号を訊かれるとは思っていなかった自分は、郵便番号という単語は知っていたが、普通レジで訊かれるはずの質問リストの中にその単語が存在しなかったから、質問の意図が読めず、何を訊かれているのか理解できなかったと述べています。筆者はこの状況を、コミュニケーション不調の典型的な例だとしたうえで、質問すること自体を諦めてしまった店員に対して、レジの上に身を乗り出して、再び問い直すという行動を起こさせた能力をコミュニケーション能力と位置づけました。また、同様に、店員が、自分(筆者)のために説明する労をとるという行動を起こさせた能力もコミュニケーション能力であると述べています。
筆者はさらに続けます。コミュニケーションの失調から回復するには、いったん口をつぐむこと、即ち自分の立場を「かっこに入れる」ことだとし、いったん相手に発言の優先権を譲るのが対話というマナーだと教えてくれています。しかし、対話は、今の日本社会(この文章は2014年刊の「街場の共同体論」におさめられています)では、ほとんど採択されていないと言います。ボクシングの世界タイトルマッチになぞらえれば、まずはチャンピオンベルトを返還し、それを中立的な立場に置くのが「対話」であり、チャンピオンベルトを巻いた二人が殴り合い、相手のベルトを奪い合うのが「論争」だと定義づけました。
筆者は、この文章の一番最後に、こんな言葉を記しています。コミュニケーションの失調を回復するためには、自分の立場を離れて、身を乗り出すほかにありません。僕はスーパーのレジで、文字どおりつま先立ちになって、カウンターの上に身を乗り出して話しかけました。立場を離れるというのは、そういうことです。相手に近づく。相手の息がかかり、体温が感じられるところまで近づく。相手の懐に飛び込む。「信」と言ってもよいし、「誠」と言ってもよい。それが相手の知性に対する敬意の表現であることが伝わるなら、行き詰っていたコミュニケーションは、そこで息を吹き返す可能性があります。
考えてみれば、コミュニケーションの正体よりも、コミュニケーション能力があることの価値というか効用というか、ありがた味みたいなことを体験的に知っていることのほうが大事なのでしょう。学校生活の中で、人間関係の問題で悩むことがあるかもしれないけれど、その人が、筆者のようにつま先立ちになってレジカウンターに身を乗り出すことをしたかどうかを問えば、そのことが、コミュニケーション能力のバロメーターになっている気がします。ある人にとって、それはあたりまえのことだけれど、ある人にとっては、とてつもなく難しい課題なのかもしれません。
こんなことを書きながら思い出したのですが、ある卒業生が三国丘高校に帰ってきて、大学生活の感想を教えてくれた時、「(大学の)先生がグループワークを指示した時、他校出身の同級生たちはどうしてこんなにも時間がかかるのかなぁと不思議に思った」という発言をしたと聞きました。話し合いが始まるまでに流れる沈黙の時間が長すぎて耐えられないという意味です。私見ですが、こんな場面で自分から話しはじめることができる人は、筆者が示したような場面でも、迷いなくつま先立ちになれる人に違いありません。つま先立ちの練習を繰り返した三丘生が、強くて美しいアキレス腱と柔らかなコミュニケーション能力を持った人材に育っているとしたら、そのことをもっとみんなに自慢しなければいけないと思いました。