今日は2年生の2回目の登校日でした。朝の通勤の様子を見ても、駅で乗降、移動する人が一時に比べて徐々に増えてきたように感じます。ここに来て、緩和ムードが一挙に高まっている感がありますが、引き続き冷静な対処が求められると思っています。
さて、今年度2回目の投稿で読書について書きました。その続きを書きます。読書といっても、単なる暇つぶしではないかぎり、どういう種類の本を読むかで、その良さは異なります。今回は文学、特に小説について考えてみたいと思います。
生徒のみなさんも物語は好きという人がほとんどだと思います。アニメ、漫画、ドラマなど世の中には物語がたくさんあります。なぜかというと、物語は人生の糧になるからです。自らの人生の展開自体を人間は物語的に把握するので、他の物語が面白いし、参考になるというわけです。小説も物語なのですが、理解するのに時間と労力を要します。同じ本になっている漫画と比べてみましょう。人間が食事をしている場面を小説で描写しようとすれば、どのような人物が、どのような場所で、どのようなメニューを、どういう状況で食べているかを言葉で描かねばなりません。漫画であれば、それを一コマで描くことも可能でしょう。読み手は小説であれば活字を時間をかけて読まなければなりませんし、要点で知らない漢字や意味の知らない言葉が出てくれば、調べる必要があるかもわかりません。漫画であれば、その一コマなりを見れば瞬時で、学生風の女性が友人とイタリアレストランと思われる場所でピザを食べているということをとても具体的に理解することができます。時間と労力の差は歴然としています。状況などを描写して伝えるのは、小説は分が悪いようです(ただし、小説が好きになると、言葉で描写された内容を想像するほうが楽しくなったりするのですが)。
では、その女性のその時の気持ちや考えていることを描くことに関してはどうでしょうか。漫画の吹き出しにそれを書こうとすれば、スペースに限度があります。小説であれば、微に入り細にわたって人間の内面を描くことが可能です。一人称で書くのであれば、ある時に抱いた考えを何十ページにもわたってつづることもできます。プルーストに「失われし時を求めて」という名作がありますが、その主人公の意識の流れを作者は、たったスプーン一杯のマドレーヌの味に記憶を呼び覚まされるかたちで、過去の思い出をえんえんと厚い文庫本にして10冊を優に超えるくらいに書きつづっています。人間の内面を描くことにおいては、言葉を表現手段とする小説は非常に優れているのです。たとえば、親しい人を亡くしたために一晩中泣き明かしたある女性の悲しい気持ちを、読む人間が深い共感をもって感動できるように、言葉でその世界を創造していく。内面世界の広がりは宇宙に匹敵するといわれるくらいですから、作家が描くそれを理解するためには労力を要しますが、それに見合うだけの感動や充実感を得ることができます。
小説世界のなかで描かれる人物の内面の複雑な深みを味わうことが、生きていくうえで大きな糧になることは間違いないでしょう。すぐれた作家の作品を読むことは、自分の内面を磨くことにもなるので、ぜひとも若い人たちにも読んでほしいと考えています。