12 批判と表現の自由について考える

 堺西高校の生徒のみなさんはどう考えますか。

 一昔前までは、日本社会というのは失敗や悪、ずるいことなどに対してどちらかというと寛容な社会だとされていました。何か禊(みそぎ)にあたいするようなことをすれば、それで終わってしまう。まさに、きれいに水に流して終わりというわけです。次に同じ過ちを繰り返さないためには、しっかりと冷静に検証をする必要があるのですが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という感じで済まされてしまうことが多かったと思います。欧米諸国や国内の進歩的知識人などはその点をプレモダン(前近代)的だと批判していたと思います。

 ところが、今はどちらかというと、追及の度合いがきつくなりすぎているようなきらいがあり、もっと寛容になれないのかという風潮になっているようです。いろいろと追い詰めがすぎる結果、精神疾患発症や自傷行為に結びついたり、開き直らせてかえって事態をこじらせてしまったり、ということになるケースが後を絶たないからです。憂さ晴らしに自分の言葉を武器に使うことの及ぼす影響がどこまでなのかが当人にもわからない状態に至っているということもあります。

 それこそネット上では、中傷と批判はちがう、という文言が飛び交っています。事実ですし、そういうのは簡単ですが、ではこれは中傷、これは批判というようにきれいに分けることができるかというと、そうはいきません。明確な基準を設定するのは困難です。もし作りうるとしたら、「いじめ」の定義と同じく、被害側がどう思うかによるしかないでしょう。たとえば、書かれたほうが「中傷」だと感じたら、それは中傷だということになります。しかし、日本社会は歴史的経験から、表現の自由への抑圧に結びつくことに対して、強い抵抗があります。ですから、批判が自由にできなくなることへの恐れから、受け取り側の取り方次第というのも、適用に至る可能性が低いと思います。

 私はこういう問題をこそ、これからの日本社会をになう若者に考えてほしいと思うのです。おそらく個々人の経験や考えによって答えはまちまちになるでしょうから、他の人たちと話し合うことが大切になります。中傷された経験がある者は、表現の自由などと言っている場合ではないというでしょう。権力に不信感を抱かざるをえない経験がある者は、批判の力が弱まることに反対するでしょう。であるからこそ、話し合って、自分とは違う見解の人間がいて、それはその人なりに経験をふまえて考えを持っているということを認識し、そのうえで、どう解決していくかを一緒に考えていく必要があるのです。

 相手との人間関係がしっかりと形成されていない場合に、感情的になってうまくいくことはありません。その場ではうまくいったと思っても、相手は納得していませんし、かえって遺恨を残すケースがほとんどでしょう。場合によっては、取り返しのつかないことにも発展しかねません。そんなつもりではなかった、という言葉が免罪符になる時代ではないのです。この自分の意図を超えて言葉が拡散してしまう状況が情報化社会の一面の事実です。前にも述べましたが、ディベートの技術よりも納得解を導く協議の技術のほうがはるかに大切です。そこでは理論で武装する能力より、相手の立場になれる想像力や協調性が求められます。検定制度のもと、その点に関する言葉や情報の扱いについて、新しい教科書はどうなっているのかに注目しています。

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