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18 現代にあって良い「物語」を読むということ ~思春期の読書のすすめ~

 火曜日の2、3年生の学年集会で話をした折に、校長ブログにもメッセージを書くので読んでみてほしいと伝えました。何度か、読書について書きましたが、今回は4回目に続いて、物語を読む意義について書いてみます。ことわっておきますが、楽しむということが大切なので、功利主義的な観点からのみで物語を読み続けるのはどうかと思いますけれども、最初のきっかけは何かの役に立つのなら、ということであってもいいと思います。週末ですから、少し長くなりますが、詳しく書いてみます。

 昔と現代ではどちらが複雑になっているか。その昔というのはいつ?という問いを立てるまでもなく、現代のほうが確実に複雑でしょう。情報化が進み、生活の便利な環境がどんどんと整備されると、そのぶんできることが増えるので、かえってすべきことも増えて複雑になるのは当然です。たとえば、あることを判断するのに、昔はAかBかの二択であったものが、情報がたくさん手に入るので、ABCDEの五つの中から選ぶことになる。選択肢が多いのはいいことかもしれませんが、五つを比較して考察の対象にするのは大変でしょう。でも、それをしなければならない状況になっている。面倒だからといって、ABだけを検討して、うまくいかなければ、ちゃんとCDEについても考えたか、と責任を追及されたりする。

 物語といっても、そのストーリー性は単純なものから複雑なものまであります。我々は自分の人生の展開にもストーリーを見出します。単純なものに多いのは、因果関係にあてはめて解釈するパターンでしょう。ある青年が犯罪に手をそめた。その家庭の経済状況はよくなかった。彼は貧しさゆえに罪を犯したにちがいない。こういう単純で表面的な物語解釈はわかりやすいので、支持が集まります。しかし、たとえ生い立ちがそうであっても、多くの人たちは自分で幸せな人生を築こうと地道な努力を続けている。そういう努力をしている自分の内面をきちんと振り返ってみれば、それほど簡単な話ではない、ということが分かりそうなものですが、人々は単純な物語的な解釈に飛びつく。それは不安だからでしょう。何かわかりやすい動機や理由があるはずだと信じたいので、それを何とか見つけ出して安心したいのです。

 カミュの小説は「不条理」の文学と言われます。「異邦人」の主人公ムルソーは人を殺してしまう。人々は何か理由があるだろうと思うのですが、ないのです。ないのに答えを要求されるので、彼は太陽がまぶしかったから、と答えます(読んだのはもう40年近く前で、今手元に本がなく、うろ覚えの記憶で書いているので)。不条理に我々は耐えられないところがあると思いますが、カミュはその点を鋭く突いているのです。

 すぐれた文学、小説は人生の真の複雑さに匹敵するような物語世界を構築しています。夏目漱石の「こころ」は前半の展開で謎を秘めた「先生」の姿を若い「私」の初々しい視点から描いています。「私」は純粋に「先生」への敬愛の念を抱くがゆえに、その過去を知りたがります。ところが、教科書にも採択される後半の先生の手紙の部分にいたって、先生の過去は単純な善悪や正義不正義で割り切れるようなものではなく、おそらく正解のない、複雑な様相をまざまざと展開していく。若い「私」とともに我々読者も、慄然という感に打たれる。狭い人間関係のなかに、いかに複雑で執拗な心のうごめきが存在するか。漱石が今でも読まれ続けているのは、正解のないような人生の複雑な課題を真摯にとりあげて、確固とした文学世界を創りあげているからです。実は、村上春樹の小説にもそういう特質があると思いますが、機会があれば書いてみたいと思います。

 さて、我々が日々多く出会うのは、単純ではない、複雑な課題のほうでしょう。社会の複雑化に伴って、課題もますます複雑になっていく。どのレストランに行くか、ネット情報で星の数が多いところへ行く。でも、それで必ずおいしいとは限らない。本当は、オリジナルな自分の味覚に合う料理が星の数で決まるはずはないのです。たとえ、自分以外の人間がすべて美味しいと思えても、自分には不味く感じてしまうということはありえるのです。周りに合わせる、合わせなければならないということはある。しかし、自分の感覚をごまかすことはできません。ましてや、もっと高度で大事な判断をしなければならない事柄においては、何かにあてはめて安心するというわけにはいかないのです。

 複雑な物語を持つ文学作品はその場での解決には役立たないかもしれませんが、人生の課題が持つ複雑さに立ち向かう「知」を内面に養ってくれるものだと私は考えています。だから、いい質の文学は読む価値のあるものとして、繰り返して評価され、推薦されてきたのだと思います。近代文学で私自身が読んだもので、日本ならば漱石、鷗外ら、海外ならばドストエフスキーやロマン・ロランなど。

 実は、文学のみならず、たとえばアニメでも宮崎駿の作品のなかには、そういう要素を持ったものがあります。「もののけ姫」などがそうだと私は思います。日本に原住していた少数民族の末裔と思われる登場人物アシタカがしていく経験は、誰もが精いっぱい生きていかねばならないところで、何が正義なのかがわからない状況の中での、判断と行動を求められる場面の連続です。単純な因果応報の考えでは、悪いことをすれば罰を受けます。が、彼がやむなくタタリ神を倒して得た呪いの腕の傷は、村の女たちを守るためでした。悪をなしていないのに、人を助けるために身に呪いを受けざるをえない。女棟梁エボシともののけ姫サンの戦いの仲裁に入って、身には石火矢による瀕死の傷を受ける。助けたはずの両陣営から非難の目を向けられる。それでも、捨て身になってアシタカが自分の信じるところを敢然として行動していく姿に我々は感動する。「もののけ姫」の海外での評価が高くなかった原因の一つは、このプロットの複雑さだと思います。善と悪がはっきりした物語はわかりやすい。ハリウッドの映画などでもそういう作品が大ヒットしますが、回を重ねてストーリーに陰影を持たせようとすると、善悪が交錯しはじめたりするパターンになったりしています。(もっとも、娯楽作品だとわりきっているものは、目的が明確なのでそうでもありませんが。)

 ですから、すぐれた物語であれば別に文学に限定する必要はないのかもしれませんが、以前にも書いたように、文学でないと表現できない特質というものがあるので、ぜひ良い小説文学にも親しんでほしいと思います。よい週末を迎えてください。

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