今日は本当に梅雨に入っているのか、というぐらいの晴天になっています。気温はあがりましたが、湿度もあまり高くなく、陽に映える樹々の緑が非常にきれいです。通常の授業形態に戻ってからの2週目に入っています。そのぶん、疲れがたまってきているかもしれませんが、何とか一つ一つの目の前の課題をクリアしていくような感じで、西高生には頑張ってほしいと思います。
今回は詩を読むことについて書いてみます。今でも書店の文庫本コーナーに行くと、一定数の詩集が並んでいます。文庫本になっているのは有名な詩人のものです。しかし、これらの詩集は売れているのかな?といつも心配になります。
昭和の終わりごろには、少数にはなっていたと思いますが、まだ詩集を繙く若い人の姿が電車や教室で見られました。私が一番最初に買ったのは旺文社文庫の萩原朔太郎の詩集でした。高校の現代文の教科書に載っていた朔太郎の詩のインパクトが非常に強かったので、よく読んだ記憶があります。合わせて、担当の国語の先生から朔太郎の娘さんが書いている父親の思い出からエピソードを紹介していただいたのがとても面白かった。次に買ったのは上田敏の「海潮音」だったと思います。敏による格調の高い訳詩の響きに魅了されました。
そして、次が中原中也です。私は小林秀雄を専門に研究していて、中也は小林と濃密な関係性を築いた詩人だったことがきっかけです。中也に関しては、その人間性をめぐる魅力もあって、たくさんの評論なども読みました。もちろん、詩は天才的です。生活はとても破天荒なところもあったのですが、一方で純粋極まりない感情の核のようなものが内面にあり、そこから非常に美しい抒情の調べが生まれました。今でも日本の詩人では中原中也が一番好きでしょうか。外国の詩人ではランボーが好きですが、これは小林秀雄の訳で親しんでいるので、むしろ小林の訳詩として扱うべきかもしれません。ランボーに関しても、小林が書いた評論などと合わせて、ここに極点の文学がある、と感動したものです。
さて、現代の世の中はいっそう功利主義的な考え方が強くなっている感じがします。物事の価値がお金に換算できる損得で考えられてしまう。「こんなことをして一体何の得になるんですか」というお決まりのフレーズをしょっちゅう聞きます。国語で詩を扱った授業をする時にも、単元の初めの時間には生徒によく言われたりした記憶があります。たしかに、生活するのに精一杯のなかで、悠長なことはしていられない。芸術に親しんだりする趣味は贅沢な人間のすることだ。本来芸術を保護すべき立場の機関もそういう姿勢を強めています。功利主義的な見方からは、「詩」も軽視されて当然でしょう。入試にもあまり出なくなり、教科書でも掲載も小さくなり、その結果として小中高の国語の授業でも時間をかけて扱われることが少なくなってきていると思います。ましてや、一般の人々が詩に親しむことは少なくなってしまうということでしょう。
詩に親しんだからと言って、目に見える利益があがるわけではないのはたしかです。しかし、生きていくうえで役に立たないか、と言われれば、それは違うと私は思います。「役に立つ」をハウツー的にとらえるのではなく、人生の意味合いのレベルでとらえれば、詩の世界の豊かな面白さを知ることは価値があると思うのです。あの孔子が「礼」を学ぶばかりではいけない、人間は必ず「詩」を学ばなければならない、と強調したのにはきちんとした理由があるのです。
少々長くなりましたから、その理由の説明は別の回でしたいと思います。