35 心の整理をこころがけるということ

 今朝通勤時に本を読んでいると、トラブルの連続である人生において、これですべて解決ということはない以上、教育で大切なのはたくましく生きていく力を育むことだ、という言葉が出てきました。新しい指導要領をはじめとする様々な教育改革の流れではいろいろなことが唱えられていますが、要はこの言葉に集約されるような力を子どもたちに育成するということでしょう。自分が想定した通り、計画した通りにものごとが進むはずだ、という考え方ではこれだけ変化の激しい社会をのりきっていくことは難しい。いったい誰が、今のこの感染症によるここまでの社会混乱を予想しえたでしょうか。思い描いていた人生設計図を大きく書き換えなければならない人が多くなると思います。

 ものごとに対処するのに、何もかもいっぺんにというわけにはいきません。順序だてて、整理しながらしていくことになります。順番をきちんと考えないと、無駄な努力をすることになります。部屋の掃除をするのに、先に床を拭いてしまうと、棚の上のホコリ払いをしたあとに、舞ったホコリが落ちるのでもう一度床拭きをしなければならなくなります。心の整理をするにあたっても、行き当たりばったりではなくて、冷静になって、よく考えるということが必要になります。しかし、これがなかなか困難です。我々が悩んでいる時は、感情的になっている時ですから、冷静になれませんし、考えも同じところをぐるぐると回る状態になりがちです。

 その点で、そういう事情に関連するような史上のエピソードや物語は、自分の状態を客観視するヒントになってくれます。夏休み前ですから、西高生の読書意欲の喚起もかねて、少し述べてみましょう。

 釈迦の若い弟子に非常な美男子がいました。今でいうイケメンですね。ある純情な少女に思いを寄せられて、悩むことになります。自分は修行の身で、その思いに応えることはできませんが、少女の思いはどんどんと募っていくばかりです。気持ちのやさしい弟子は少女をむげに冷たくあしらうこともできずに苦しみました。そんな時、釈迦がその弟子の前で、ひもを結んでいくつかの結びめを作ります。次に釈迦はその結びめを一つずつ順番にていねいにほどいていって、弟子に語りかけました。「アーナンダよ、結びめはどこにあるか?」おそらく、弟子はハッと我に返ったと思います。まず自分の気持ちと考えを整理して、逃げたり、ごまかしたりせずに、少女にきちんと正面から自分の考えを伝えたことでしょう。そうすることで、もし新たな結びめができたならば、またほどくことができるように努めていくのです。

 高校生もよく知っている物語で言えば、「もののけ姫」のアシタカの生き方がヒントになります。村の娘を救うためにやむをえずタタリ神を倒して呪いを身に負った彼は「くもりなきまなこ」で世のあり様に対することを決意して旅に出ます。旅はトラブルの連続で、善意の人助けをしたために、もののけと人間との争いに巻き込まれて、命を落としそうになる。アシタカ自身はしっかりと正義はどこにあるかを考えて冷静に判断を下していくのですが、身に受けた呪いは他者に危害を加えようといきり立ちます。抜刀して眼前のエボシという女性を切り殺そうとする腕を自分の違うほうの手で抑え込むシーンがありますが、我々が感情的になっている自分と葛藤する状態を象徴をして秀逸だと思います。

 大したことでもないのに、以前に同じようなパターンのケースでひどい目にあったので、感情的に爆発してしまう。我に返ったときには、後の祭りで、相手にひどい言葉をぶつけたりしてしまっている。ふつうは、アシタカのように自分に与えられた運命を見定めて、心の整理をすることはなかなかできるものではありません。彼にはその呪いも自分の一部だと受け入れるだけの覚悟があったのです。映画では前史は描かれていませんが、ヤマトに追いやられて苦難の歩みをしてきた一族の長たるべく育まれ、成長してきたことが想像されます。状況をふまえて、自分を抑えることのできる力は社会生活上で必要になるものです。

 最後に現代小説から村上春樹の「ノルウェイの森」をとりあげましょう。ストーリーの中で、ワタナベという青年は恋愛の問題で非常に苦しむのですが、それは彼が心の整理をできない状態に追い込まれているからです。明確な理由なく理不尽に親友や恋人が「失われて」いくので、その時々で感情を処理しながら次に進むことができずに課題の多い二十歳前後を生きなければなりません。図式化すれば「直子」と「緑」という女性のどちらを選ぶか、という三角関係になるのですが、単純に図式化できないのがすぐれた文学作品です。展開の終盤で主人公ワナタベはいったん心の解決にたどりつくように思えるのですが、「緑」に電話で「あなたはいったいどこにいるのよ」と言われて、最後は自分の「居場所」もわからない迷いのなかにいる自分を発見して終わります。

 村上作品では以後、井戸や地下、異空間に主人公が入る場面が増えますが、日常のなかでは心の整理ができないことを非日常のなかで整理して対処していくことの象徴かもしれません。相談相手として「羊男」という精霊のような存在まで登場します。

 どうでしょうか。悟りを開いたり、聖人君子であったりすれば別かもしれませんが、我々は生きていくうえで出会う様々な出来事で心迷うことは多々あります。そうしたなかで、いかに心を整理しながら対処していくか。考えてみてください。そして、西高生のみんな、短い夏休みですが、心の課題に届くような読書をしてみてください。

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