39 詩を読むということ③

 昨日の第38回目の記事に誤りがありました。大阪市の朝の最低気温にふれたなかで、「217年間」と記しましたが、「137年間」が正しいそうです。聴いているラジオ番組の気象予報士からの訂正が今朝の番組でありました。よく考えてみれば、数値的におかしいとわかるのですが、そのまま鵜呑みにしていました。予報士の方もいささか興奮気味でしたので、言い誤ったのかもしれません。

 さて、このブログの19回目、21回目に「詩」を読むことについての文章を書きました。「詩」の鑑賞に関しては、壊滅的な状態になっているのではないか、という危機感が私にはあります。もう一度、とりあげたいと思います。万事が功利主義的な風潮に染まりがちな社会状況で、目に見えて利益が上がるわけでもないし、何か得につながることもないことに時間を費やすのは「むだ」だという考え方が強くなっている。詩に親しんだからと言って、具体的な利益や得になることはないということから、残念なことに、学校の国語の授業でも「詩」が軽視されているのではないか、という旨のことを書きました。19回目には次のように書きました。「「役に立つ」をハウツー的にとらえるのではなく、人生の意味合いのレベルでとらえれば、詩の世界の豊かな面白さを知ることは価値があると思う」。

 要はなぜ学校教育の教科のなかに芸術が含まれるのか、ということにもつながります。国語科は芸術科ではありませんが、文学、なかでも「詩」を扱う時は芸術の学びです。芸術の専門家になる人間は少ないでしょう。詩人になる人も少ないはずです。しかし、小学校から高校まで必ず芸術について学習するのはなぜか。「感性を磨く」という言葉がありますが、そうすることで、人生が豊かになるからでしょう。二つの同じ料理を食べた時に、その味の違いがわかるほうがいいか、わからないほうがいいか。違いがわかるほうがいいでしょう。それだけ、世界が広がるからです。わからない人には、その料理はすべて同じ味にしか感じることができないけれども、違いがわかる人にはすべてが異なる個性を持った料理になる。

 感性や感覚が繊細に鋭くなるということはそれだけ世界の様相を細かくとらえることができるようになるということです。そのためには、感性を磨かなければならない。その手立てとして、すぐれた芸術作品にふれ、自らも実作などをして芸術に親しむことが大切になるのです。孔子は「音楽」を非常に重視しています。人格の陶冶において、楽を奏することは必修である。(プラトンも哲学を修めるものは体育とともに「音楽」を学べと言っています。)

 第19回の記事にも書きましたが、孔子は必ず「詩」も学ばなければならないと述べています。美しい響きと意味をかねそなえた「詩」の言葉にふれることが、人間の内面形成において非常に大切だと考えていたからでしょう。

 詩は言葉に関する感性を磨いてくれます。詩の言葉は何かを伝えようとするよりも、何かを表現しようとしている。ある人の顔を正確に伝えようと思えば写真の画像がよろしい。ピカソのような作風の画家に絵を描いてもらおうとは思わない。しかし、個性的な表現としてはどちらがすぐれているか。同じように、恋の苦しみや愛の喜びといった人間感情の動きを言葉で「かたち」として表現したものが詩です。すぐれた詩表現は我々の心の深部にまで、ということは感性の次元にまで到達して感情をゆさぶる。しかも、言葉ですから意味も伴っているので、同時に知性にも働きかけている。人間世界で言葉というものが占める重要さを考えれば、言葉に対する感性が鋭くて豊かなほうがいいでしょう。

 言葉のニュアンスへの感性が鈍い社会では公式的な言葉や、定式的な言葉が強い力を持ちます。そういう言葉も必要なのですが、あまりに幅を利かせすぎると心や精神の現実から離れたものになってしまいます。人に何かを頼んだ時に、「ええよ」という返事のなかに「本当は嫌がっているな」とか「ちょっと驚かせたかな」とか「めっちゃ、頼もしいやん」とかいうようなニュアンスを読みとりながら、我々は人間関係のなかで言語活動を行っています。現実生活ではそれに顔の表情や身体の動きなどを加えて、いろいろとコミュニケーションをしているのですが、言葉への感性が豊かであるにこしたことはありません。

 思春期から青春期にかけて、様々な時代の、様々な地域の「詩」の言葉にふれることは自分の内面を耕すことになり、それはやがて良い実を結ぶはずだという願いが「詩」の教育には込められていると思うのです。

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