未曽有の勢力を持った台風10号の襲来があるということで、しばらく関係のニュースで持ちきりでした。あれだけ事前から用心呼びかけて、通常よりも対策をたてていたはずなのに、被害に会われた方が多数出ています。私が物心ついたころから日本はこの時期に台風に見舞われて一定数の犠牲者が出る、という事態が続いている記憶があります。おそらく、日本列島ではずっとこういう状態が現在まで継続しているのでしょう。しかも、近年は様々な要因により、台風の規模が大きくなっているように感じます。地球温暖化→気象条件の変化と海水温の上昇など→発生する台風の大型化、ということが言われています。地球温暖化に歯止めをかけることは、経済活動を抑制することにつながりますし、ダイレクトにその因果関係が明確になっているわけではないので、なかなかせっぱつまった大きな対策にはなりにくいところがあります。
我々は仙人ではないので霞を食って生きていくわけにはいきません。経済活動の抑制が自分たちの生活にどれだけの我慢や不便を強いるのか、それをきちんとふまえたうえで、考えていく必要があります。自分が受ける便利なサービスなどはそのままで地球環境をクリーンにしたい、というのは現時点では難しい。けれども、それをどう実現していくかを若い世代の人たちには積極的に考えていってほしいと思います。
さて、コロナ感染症の感染者数が減少してきています。これからは少しは涼しくなるでしょうし、大きな台風もひとまずは通過していきました。ほっと一息という感じですが、油断は禁物でしょう。西高生のみんなにもそのことをしっかりと理解してほしいと思います。たとえを具体的に諸芸の習得にとって説明してみます。
第2波の発生の要因の一つは確実に解放感が招いたものでした。武道では緊張からの解放から生じる油断を戒めて、相手に打撃を加えた後に「残心(残身)」ということが言われます。心、意識が途切れてしまわないことです。自分にスキが生じやすいのは攻撃に転じる一瞬と攻撃を加えた直後なのです。特に攻撃後は態勢がくずれて、「受け」がおろそかになりやすいものです。ですから、すぐに元の態勢に戻って相手の様子に注視できるようにしなければなりません。
時代劇などで相手を切った後に、その格好いいポーズをそのまま続けている場面がありますが、あれはお芝居ならではのことです。切りあって交差して、そのまま振り向かずにしばらくして、どちらかがバタリと倒れるというシーンもありますが、リアルな立ち合いではすぐに振り向いて構え直し、そのまま敵からの攻撃を避けられる距離まで離れることになります。(時代劇でもリアルさを追求した作品では、きちんとそれを再現しています。)
また、茶道の点前でも動かしているほうの手と動かさずにいるほうの手に注意力を分散するように言われます。全体の注意力を10とすれば、動かすほうに7~8の注意を配るのは当然ですが、動かさないほうにも2~3の注意を配るのです。技術を習得する過程では大概そうですが、初心者は覚えている手前の順番をこなすのに必死ですから、動かすほうに10の注意をしてしまう。その結果、動かさないほうの手は指が開いたり、だらりとしていたりになる。これでは、美しい点前にはならないのです。師匠から「指をそろえて」などと注意を受けます。不思議なもので練習を重ねて、点前が「身につく」レベルまで「身体」が覚えると、注意力の分散が可能になってきます。
実は諸道、諸術で「残心」は極意ではありません。本当の極意は江戸時代に沢庵(たくあん)禅師が「不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)」で述べているように、どこにも特定の注意を向けないようになることなのでしょう。つまり、何ものにもとらわれない境地です。とらわれれば、動きが硬くなり、初動に遅れが生じる。千手観音が千本の手をどの順番で動かすかと考えだせば、おそらく動けなくなるだろう。しかし、そうならずに衆生を救えるのはとらわれの妄念を持たないからである。自分に切りかかってくる相手の剣の動きに気をとられたら、受けをどうしようと思った時には切られてしまっている。
「不動智神妙録」は沢庵が将軍家指南役の柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)に剣の心構えを説いたものですが、諸芸に通じる精神のあり方などを説いた内容のものです。残念ながら古文が難しいのですが、体育や芸術が盛んな西高のみんなには読んでほしい古典です。
油断禁物という話が長くなってしまいました。我々には沢庵の説くような境地に達するのは至難ですから、完全に油断してしまわないで、少しは次に起こりうる不測の事態に備えることが大切だということです。コロナ感染、熱中症、災害それぞれに対して、注意を怠らないようにしたうえで、必要以上に臆することなく、様々なことに取り組んでいきたいものです。