71 「かげ」は物陰か? ~冬の和歌を鑑賞する~ ②

 前回の続きです。和歌の中に出てくる一つの言葉の解釈で、内容のイメージが大きく異なるケースをとりあげてみます。西高生のみなさん、どう感じるでしょうか。(専門家の最新の研究などをふまえているわけではないので、個人の解釈と思ってください。)対象は藤原定家の歌です。

  駒とめて 袖うちはらふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ

 「駒(こま)」というのは馬のことです。「袖」をうちはらうのはなぜかというと、あとで「雪」が出てくるので、その雪がつくからです。「佐野」というのは和歌山の地名だとされています。「わたり」は周辺でしょうが、渡し場だという説もあるようです。さて、問題は「かげもなし」です。多くの注釈をみるとここは「物陰もない」となっています。それにしたがって全体を現代語訳すると「馬をとめて袖についた雪をうちはらうことができる物陰もないことだ この佐野のあたりで迎える美しい雪の夕暮れ時には」となります。

 しかし、私はこれでは少し平凡なイメージを持ってしまうのです。定家にはあの三夕(さんせき)の歌として有名な「見渡せば 花ももみじもなかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮れ」があります。秋のうらぶれた海岸の風景ですが、いったん「花」「もみじ」という自然美を代表する言葉でイメージを呼び起こしておいて、「なかりけり」とそれを否定する。言葉に喚起された美しい桜や紅葉の残像が秋のわびしい光景と融合して、まさに極美の世界を構築しています。

 彼の書いた歌論を読んでみると、定家という人は和歌が作り出す言葉の美の世界に非常に意識的な人でした。そういう人が詠んだ歌として「駒とめて」の和歌をみると、私は「かげ」は人影だと考えたいのです。馬に乗っている貴公子がパッと袖を格好良く打ち払うイメージを呼び起こしておいて「かげもなし」でそれを打ち消します。そこでいったん表現もイメージも断絶されます。あるのは冬の見渡す限り雪が降る夕暮れ時の野原です。

 夕暮れですからまさに陽が沈もうとしている光加減の時に、雪が降っているのです。雪はきらきらと美しいアカネ色を反射している。その中にさっそうと馬に乗った貴公子の残像が合わさる。それで訳すと「馬をとめて袖についた雪を打ち払う人影もないのだなあ この佐野のあたりの雪降る幻想的な夕暮れ時には」となります。やがて陽が沈み切ると雪の姿は見えませんが(雪模様ですから月明かりもないでしょう)、降り積もる音は暗闇のなかから響いてきます。無人の、貴公子の残像だけがある幻想的な美の空間がわずかの時間のうちに漆黒のモノトーンの世界に飲み込まれて音だけが静かにしんしんと響いている。視覚世界から聴覚宇宙への転換劇です。非常に幻想的です。

 これを実際の人物が物陰のない状態を嘆く歌のようにとらえると幻想性がとたんに薄れてしまうように感じるのです。どうでしょうか。授業なら生徒に想像イメージを羽ばたかせて冬野の雪降る世界に連れていき、考えさせて、訊いてみるところです。

 今回、ややこしい文法解釈のからまない和歌をとりあげてみたので鑑賞の足しにしてください。それにしても、新古今和歌集時代の和歌表現は本当に美しいイメージ世界だと感じるばかりです。

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