• トップ
  • 2021年
  • 8月
  • 23 コロナ禍をとおして公共のルールと自分のルールについて考える

23 コロナ禍をとおして公共のルールと自分のルールについて考える

 最近の報道では、コロナ対策のための様々な行動制約ルールが空回りしているのではないか、その結果として感染状況の収拾が見通せない状態になっているのではないか、という論調が増えてきています。2学期に控える多くの大切な行事等での感染対策をきちんとしていくために、もうすぐ始まる8月の授業を前にしてルールのあり方について西高生のみなさんと一緒に考えてみたいと思います。

 とても交通量の多い交差点で幼い子どもが赤信号で道路を渡ろうとしているのを目の前で見たら、西高生のみなさんはどうしますか。危ないから止めるでしょう。その子がむずかって渡る!と言っても制止すると思います。その子が自分のことだから好きにする、と言っても承知はできません。そして危険なことを防ぐために交通ルールというものがあり、それにしたがうことが安全につながるということを君たちは知っているので、「今は車が多いから赤信号を渡ってはいけない」と言うのではなく、「赤信号は守らなければならないよ」とその幼子に言ってきかせるはずです。

 このように本人の直接な危険性につながる場合は、話がわかりやすいのですが、そうでないケースでは①公共のルールと②自分のルールの関係は難しくなることが多いのです。哲学的な用語では①をモラルと言い、②をマキシムと言います。哲学者のカントは②が①に一致することが人間が倫理道徳的に生きていくうえで理想的だと述べています。実際に生活していくうえでは①と②が一致しないことも多いでしょう。しかし、その場合には、多くの人たちが一緒に生きていくためには①を尊重しなければならないということで②はひとまずおいて①のみんなのルールに合わせるということになります。

 トラブルになるのは①の理由があいまいな場合です。当初は明確であった理由などが時間を経てはっきりしないものになっていくケースなどです。

 共同住宅で何時以前にはゴミを出さないでください、というルールがあったとします。自分は早く出かけなければならないので臭いのきついゴミを今日のうちに出しておきたい。だから出してしまいたい気持ちはあるが、ルールなのでやはりやめておく。理由がわかればと思って管理を任されている人に聞くと「私もわからないんです」と言われた。実は収集車が来るよりも2時間以上前にごみを出すとカラスが来てゴミがさんざんに荒らされるということがだいぶん以前にあったのでそういうルールができた。しかし、その時の住人はほとんど残っていないということがありえます。その場合、理由がわからないからといって皆がルールを守らないようになると再びゴミが散乱して衛生的に悪い状態になってしまいかねません。

 今の社会状況の中では他人同士が集まらざるをえない場合は(やむをえない事情を抱えた人は除いて)マスクをするというのがルールになります。2回目の接種を終えていてもです。自他の感染を防ぐというのが理由です。種々の行動制限もそうです。我慢の期間が長期にわたるので、自分の主義やルールを主張して行動したくなるのも理解できますが、コロナ禍に関してはできるだけの協力をしていく必要があります。なぜ、行動に関して共通のルールを守ることが大切なのかを改めて人々に強く認識してもらえるような対策打ち出しのデザインがほしいところです。それはルールの厳格化や違反した場合の厳罰化などによってだけではできないでしょう。

 コロナ禍のなかで生活している人々の考えを主体的に対策を守ろうとするものに変えていくようなデザインが要ると思うのです。西高生のみなさんも、社会が、学校が、家族がこの状況のなかでもできるだけ良いかたちで生活していくために、対策ルールを守ることの大切さを再認識するとともに、以上に述べたようなことについて考えてみてください。西高祭での対策については委員の生徒が教員と一緒にいろいろと工夫して考えてくれていることと思います。

カレンダー

2025年5月

    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

年別一覧