29 「読む力」の育みの大切さ

 国語の授業で「読み」に比重が置かれすぎていることに対する批判があります。言葉を使う力では、読むだけではなく、書く力や会話する力(話す聞く力)も大切なのに、文章を読む力ばかりを国語の先生は育てようとしすぎではないか。実用的な国語力を身に付けさせようとすれば、読んでばかりではだめだ、というのです。言葉の力をどう育てていくか、という点について私見を述べてみますので、西高生のみなさんも考えてみてください。

 「読む力」「書く力」「話す力」「聞く力」のそれぞれが社会生活を営むうえで重要なのはいうまでもありません。しかし、気をつけなければならないことがあります。これらの言葉をめぐる力は単純な横並びの関係ではなく、育つ順序があり、有機的につながっているということです。

 たとえば「動物園」というテーマで子どもに作文をさせる課題があったとします。ある先生はさまざまな動物の写真をたくさん見せて、文章を書かせました。別の先生は「動物」について書かれている文章を三つほどしっかりと内容を読ませてから書かせました。子どもたちが喜んで目を輝かせるのは写真を見せる授業のほうでしょう。では、どちらが、子どもたちに内容のある作文を書く力がつくでしょうか。これは後者です。

 写真をたくさん見た子どもたちは見た動物の名前はいろいろと書くことでしょう。でも、動物園にかかわる人々の思いや過去や将来の動物園のあり方などについて書けるのは、文章を読んだ子どもたちのほうです。具体的な実物を活用することはもちろんあるのですが、国語は実物教育ではないのです。言葉の力をはぐくむことを目標とする教科です。言葉の力もいろいろありますが、重要な一つは対象を抽象的にとらえて表現する力です。

 ある文章からライオンについての「知」を学んだ子どもは、自分で書くときにそれを使うことができます。その「話す」ことでもある程度はそういう力の育みは可能なのですが、書き言葉のほうが抽象性が高いので、言葉の力は圧倒的に「読む」ことを通して育まれるのです。ところが、写真を見せただけでいきなり自分の感想などを表現させようとするので、個性のない同じような文章ができあがります。「読む力」の育成がおろそかになることは文化レベルの低下に直結する事態になることが危惧されるのです。

 ですから、私は「読み」に国語の授業の多くの時間が割かれるのは当然だと考えています。まず、そこで言葉の力がしっかりと育たないと内容のある文章を書くこともできないし、論理的に話すこと、要点をつかみながら他人の話を聞くこともできません。ただし、文章の種類は様々であるほうがいいでしょう。本当は質の良い長編の小説文学などは飛躍的に言葉に関わる力(人生について思索するレベルに至る)を高めるはずですが、学校の国語の授業では扱うのは難しいでしょう。

 とにかくアランも言っているように、「(ある意味では)読みを覚えることがすべてである。学ぶ者よ、読みに読みたまえ。」ということは正しいと私は考えています。ではこういうことを新しい国語教育の流れの中でどのように活かしていくのか、それこそはこれからの現場の国語の教員の取り組む値打ちのある課題なのです。それはさておき、以上のようなことがあるので、西高生のみなさんにはプライベートタイムでもどんどんと本に親しんでほしいと思います。

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