仏教の禅宗に臨済宗という派があります。京都では栄西がいた建仁寺などが有名です。その宗派の祖は中国唐時代の臨済という人です。臨済という人は大変な勉強家で、禅に取り組む前には戒律や経論などを極めていたということです。つまり、仏教の理論に関しては、相当な知識を持っていたということです。しかし、いくらその方面に詳しくなっても人生を生きていくうえでの課題は解決しません。博識であることだけでは生きる知恵は保証されない、ということに気づいた臨済は禅に取り組むことにしました。後に禅匠となってから、臨済はどのような場合でも己が「主」となって生きることが、人生の真理をつかむことになると言っています。
情報化社会では、「情報」そのものが真理であるかのような顔つきをしています。我々は真理である「情報」、刻々と新しくなるそれに従うだけになりがちです。ネットの画面の向こうには莫大な無尽蔵に近い情報があります。その情報の真偽はわかりませんが、検索ページの最初の数ページに載っているものが、「世の正論や常識」のような顔をしています。試しに、ある食料品が健康に良いか悪いかを検索で調べてみると、両方の情報が載っていて、結局は食べたほうがいいのか、食べないほうがいいのかがわかりません。それだけではなく、情報は向こうから自分を売り込んできます(もちろん、人が操作しているのですが)。買うつもりもなかったものが、「今話題の~が今日から~日間だけ限定で格安の~円!このチャンスに買わないと損!」というような宣伝文句を目にしたとたんに、買わないといけないような気になります。
我々が主体的に処理できる情報量は限られているのに、相手(情報)は尽きるところを知りません。はたして、主体となっているのは自分なのか、情報なのか。臨済もおそらく知識を装った情報としての経典などに振り回されている自分に気づいたところから新たなステージに踏み入ったのだと思います。禅の言行録などを読んでいると、他にも博識を誇る仏教学者が禅師たちにやり込められるエピソードが出てきます。
では、情報を遮断して我々は生きていけるか。普通の暮らしをするのであれば、現代ではとうてい無理でしょう。ですから、我々人間のほうが主体となって情報とつきあっていくことを工夫することが必要になります。リテラシー教育が必要になるというわけですが、関係の技術はどんどんと進歩するので、根本のところを押さえておかないと、知らぬ間に一方的に受ける側になってしまいます。前にも言いましたが、国語科でも「情報」が扱われるようになるのですが、基本的に言葉にもとづく情報を豊かに生きるために主体となって扱うにはどうすればいいかを学ぶことになるのかと思います。
学問分野では言語哲学や文化記号学などが大切になるのでしょうが、村上春樹の1980年代に書かれた「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」という小説にはこのテーマが象徴的にきちんと描かれているので、改めてこの作家のすごさを痛感します。