てのひらの小説 『浮遊』(下) 都

『浮遊』 (下 3/3)  都

 ※ (上)(中)からお読みください。 ※


 私の家の近くの河原に着いた途端藤川さんは石でできたタイルの上に仰向けに寝転がり、大きく息を吐く。私もあとに続いて藤川さんの横に寝転がり、空を見る。まだ昼過ぎで日が強く、まるでトイレの便座に座り、裸電球を眺めているみたいだと思った。ふと、予備校のことが頭によぎる。予備校に行かなくてはいけない。大学に合格して、私は一刻も早く浪人生から抜け出さなければならない。
「あ、私、予備校行かなきゃ」
  私は空を見ながら、そんなことを呟く。口にした途端、驚くほど予備校に行く気が失せていく自分に気付く。私は両手を広げ仰向けになったまま小さく歌を口ずさむ。
「その歌、なんだっけ」
  私にもわからなかった。この歌はなんだっただろう。
「予備校、いいの」
  藤川さんは続けざまに聞く。私は曲名も歌っている歌手の名前も何一つわからない歌を口ずさみ続ける。
「誰のために予備校に行くの」
  藤川さんはずっと見つめていた空から目を離し私を見ながらそう言った。その瞬間、口ずさむ歌がとまり鼓動が速くなった。私が一番聞きたくない言葉だと、直感的に思った。遠くから犬の鳴き声が微かに聞こえる。すぐ近くで小学生の男の子たちの笑い声が聞こえる。誰のために私は予備校に行き、誰のために私は大学に行くのだろう。
  私は目を閉じ、思い出してみる。中学生のとき、私はいつも空を見ていた。眩しい太陽に焼かれてしまうんじゃないかとハラハラしながら、でもどこかウキウキしながら空を見上げ、真っ暗闇に吸い込まれてしまうんじゃないかとビクビクしながら、空を見上げていた。誰かも私のように空を見上げているだろうかと思いながら空を見上げると、私は確かに生きていると感じられた。
  空を見る。今の私は中学生の頃のように、ハラハラもウキウキもビクビクも、感じることは出来なかった。ただ空があるだけなのだ。私は、このだだっ広い空に、浮かんで飛ばされていきそうだと思った。そして私はハッとする。藤川さんは空に一人、浮かんだまま、ただ流れるように生きている。幸せも不幸せも感じることのないまま、ただ浮いている。
「あたし、きっと誰かのために何かしたかったんだと思う。あたしのためじゃなくて、誰かのために」
  藤川さんの何の感情も読み取れない横顔を見る。
「ずっとあたしのためにって思ってきた。けど、気付いたらあたしは自分のためだけに、ご飯を食べるようになって、自分のためだけに笑うようになって自分のためだけに話すようになった」
  さっきまで小学生の笑い声が聞こえていたのに、今はもう聞こえない。ただ藤川さんの声が聞こえるのみだ。
「そうなるとね、何にも感じなくなった。だってしまいにはあたししか必要なくなって、あたし以外全部、どこか遠いところにいっちゃったの」
  藤川さんの横顔からは、やっぱり何も読み取れない。私は藤川さんの感情を読み取るのを諦め、空を見る。
「あたし、どうせなら飛んでるみたいって思われたかったなあ」
  そう言って藤川さんは立ち上がり、手を広げ、鳥のようにパタパタと上下させ、川に近づいていく。
「浮いてるって、なんかダサくない?」
  藤川さんが笑う。今までに見たことがないくらい悲しい表情だった。

  初めて藤川さんの家に行った。藤川さんは少し寂れた団地に住んでいた。藤川さんの家には絵がたくさんあった。これ、あたしが描いたやつ、と簡潔に紹介されたその絵を見ていると泣きたくなった。
「散らかってるけど座って待ってて」
 そう藤川さんに言われたままに私は本当に散らかった部屋に腰を下ろす。目につくものは、絵とほとんど何も入っていない背の低い本棚と、大きい窓、白と黒の市松模様のクッションとジャージ。きっとあのジャージは藤川さんがヤンキーだったときに着ていたものだろう。捨てるタイミングを逃したみたいに部屋に放ったらかされている。
 藤川さんは水の入ったコップを二つ持って部屋に入ってくる。はい、と言いながらそれを私に手渡し、自分のコップを本棚の上に置く。藤川さんは私に構わず散らかった部屋で絵を書き始める。
「この絵、最後どうなると思う」
 顔を上げずに聞いてくる。私は何も思いつかず、
「わかんない」
  と返す。藤川さんは笑いだす。
「そうだよね、あたしにもわかんないもん」
  結局のところ藤川さんのことは、私にも藤川さん自身にもわからないのだ。ふとそう思えた。そしてそれが悲しいことか嬉しいことかも、結局はどっちでもいいことだ。
「あたし、飛びたいんだ」
  藤川さんは画用紙に白色のクレヨンを塗りたくる。白の画用紙に白色が塗られていくのは至極分かりにくい。画用紙が少しだけ濁った白に変わっていく。手元にある絵が目についた。真っ青な画用紙に白のクレヨンで羽根が描いてあった。
「飛ぼうか」
  私は絵を見ながら言った。
「そうだよ、飛ぼう」
  私は続けざまに言う。藤川さんは絵を描く手を止める。
「ここ、二階」
  藤川さんは冷静に言い放つ。
「いいじゃん二階でも。飛んじゃえばいいんだよ」
  私は立ち上がりこの部屋に唯一光をもたらしている大きな窓に向かう。地味な色合いのカーテンを開け、窓を開ける。前には小さなベランダがある。私はベランダに出て、ベランダを取り囲む手すりに足をかける。藤川さんが歩いてくる音がする。
「上村さんは、今からだれのために飛ぶの」
 藤川さんが真剣な顔で聞く。
「誰のためにも飛ばない。飛ぶだけだよ」
  私も藤川さんもわかっていた。誰かのために何かをすることも、自分のために何かをすることも、結局は同じことなんだと。お母さんのために大学に行くのも、自分のために大学に行くのも、どっちも同じだ。私にとって大事なのは、誰のために、ということじゃない。何をするかだ。私が何をするのかが大事なのだ。
「じゃああたしも飛ぶ」
  藤川さんが手すりに足をかける。
「ね、さっき歌ってた歌、思い出せた?」
 私の横に座り、藤川さんは聞く。
「思い出せない」
 私がそう言うと、藤川さんは笑った。笑いながら、あたしも、と言っている。そうして藤川さんは満足そうに姿勢を正し、前を見る。
「あたしが浮いてたって、かまわないじゃんね。あたしは誰かのために生きてるんじゃないんだもんね。あたしは誰のためにも生きてやんない。あたしはただ生きてやるんだから」
  藤川さんはそう言って目の前に広がる住宅街に、あっかんべーだ、と舌を出す。今から飛ぼうとしているのに、生きてやると叫ぶ藤川さんは、馬鹿みたいで、それでいて綺麗だった。
  藤川さんのあっかんべーを皮切りに、私と藤川さんは一斉に手すりから飛び出す。私も藤川さんも、結局は浮いていた。でも今は違う。飛んでいるのだ。

  そう思った瞬間、私と藤川さんは同時に芝生の上に着地した。藤川さんは笑いだす。
「飛んだね」
  藤川さんは笑いながら言う。藤川さんの顔から初めて感情が読み取れたような気がした。私は笑い、心の中で予備校に行かないと決める。誰のためでもなく、ただ生きよう。私は空を見上げ、そうして、わくわくしている自分に気付く。
「あたしたち、ちょっとだけ飛んだよね」
  藤川さんが笑っている。頭上に広がる空が、ずっと笑い続けている私たちを見下ろしているような気がした。

                                                                   〈 おわり 〉

 

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コメント

都さんの『浮遊』。
「第四回高校生のための近畿大学文芸大賞」の第一次選考を通過していました。
応募総数 421編中、39編のうちの1編です。
よかったですね。次回作も期待しています。