てのひらの小説 『浮遊』(中) 都

『浮遊』 (中 2/3)  都

 ※ (上)からお読みください。 ※


  私の家の周辺で一番大きい本屋の前で私は藤川さんを待った。藤川さんは二分遅れて謝りながらやってきた。今朝スーパーで会ったときと寸分変わらない姿で現れた藤川さんに、私はやっぱり違和感を感じる他なかった。
「ファミレスでいいよね」
  藤川さんは私を見ながら聞く。私は頷く。本屋から五分程歩いて着いたのは、私が予想していた通りのファミリーレストランで、私は何故か安心した。
  藤川さんは和風ハンバーグを頼み、私はシーフードパスタを頼んだ。どうして私と藤川さんが一緒にお昼ご飯を食べているのだろうか。私はまだ不思議だった。
  藤川さんは小さく切られたハンバーグにフォークを突き刺し、口に運ぶ。ハンバーグを噛み砕いたあとでそれを一気に飲み込み、私を見た。
「上村さんは大学受けたの」
  そう言って薄い皿に盛られた米をフォークで掬い、口に入れる。もぐもぐ、という言葉通りに口を動かし、口の中で米を噛み潰している。私は思わず見とれる。あまりにも長い沈黙に藤川さんはハンバーグにフォークを突き刺す動作を止め、顔を上げる。
「どうしたの」
  藤川さんは首をかしげ、またハンバーグを口に運ぶ。
「大学落ちたの、結構あっさりと」
 私は重くならないように出来るだけ明るい声を出す。藤川さんは口を動かしながら目だけで笑う。
「私も落ちたよ」
  藤川さんはにこやかに微笑んでいる。私は思わずシーフードパスタのエビにフォークを刺し、口に入れる。海っぽい、としか言いようのない味が口の中に広がり、私はそれが広がるのをくいとめるように、急いで飲み込む。
「なんかさ、あっけないね、大学受験なんて。人生が決まる、なんて塾の先生とかが言うの。私、嘘だあって思っちゃった。だってそうでしょ?だって落ちたって私、普通に生きてるんだもん」
  藤川さんはぬるくなった水の入ったコップを軽く握りながらあっさりとそう言ってのけた。
「勉強した?」
 私は小さな声でそう聞く。
「してないよ。親がうるさいかったんだけど、やってるふりしてずっと絵を描いてた」
「絵?」
「うん、絵」
  藤川さんは絵を描くような人だっただろうか、と私はまた不思議な気持ちになる。私は頭の中で藤川さんの発した言葉を思い浮かべる。「浮いてるの。」私は納得してみる。そう思えば今の藤川さんは少し浮いているかもしれない。
「ずっと絵を描いてたら、わかんなくなっちゃって。こうやって一生絵を描いててもいいんじゃないかって思ったりして」
  藤川さんは笑う。笑いながら軽く握っていたコップを揺らす。コップの中を除きこんでから藤川さんは氷が溶けきった水を一気に飲み干す。
 私たちはそれきり何も話さなかった。
 藤川さんはそのあとも一週間に一回のペースで私を誘ってきた。藤川さんのメールはいつも素っ気なく端的で、私はなぜかすんなりと了承してしまうのだった。

 予備校には全く行かなかった。日々は退屈で、私は部屋でいろんな場所のご当地の料理を食べ歩くアナウンサーや、この夏大流行すると予想されているファッションを紹介する人気モデルや真面目腐った顔で政治批判をするジャーナリストなどを見た。でもテレビで見たどの人も浮いていなかった。藤川さんのように浮いている人はいなかった。

  目の前には質素な服装の藤川さんがいる。湯気の出ている麺に息を吹きかけ、いつか見た、長崎ちゃんぽんをとんでもなく美味しそうに食べる女子アナウンサーのように麺をすする。でも決定的にあの女子アナウンサーとは違っている。私は、目の前の女から全くもって生気を感じられないことに気がついた。
「藤川さんって、幸せなの」
  思いもよらない言葉が口をついて出た。
「あたし?」
 藤川さんは口を紙ティッシュで拭いながら言う。
「あたし、幸せも不幸せもわかんないの。今こうして食べてるちゃんぽんがあたしを幸せにしてるのかもわかんないの」
  藤川さんからは相変わらず全く生気が感じられない。幸せか不幸せかもわからないまま藤川さんは蓮華で掬ったちゃんぽんの汁を飲む。あつ、と藤川さんが小さく言う。
「あ、そういえばさ、メールアドレス交換したときにあたし上村さんに浮いてるっつったでしょ」
  私は頷く。
「あれ、気にしないで。友達に言われただけなの。あんた浮いてるって。意味わかんないでしょ?」
  嘘だと思った。藤川さんは嘘をついている。藤川さんは自分が浮いているのだと、わかっている。だからそれを隠すために、赤茶色に髪の毛を染めたのだ。それを隠すために耳に穴を開けてそれを隠すために沢山香水をふったのだ。
「行こうか」
  藤川さんは立ち上がり、まだ半分以上残っている藤川さんのちゃんぽんと私の塩ラーメンを見下ろしてにやりと笑う。

                                                            〈 下につづく 〉