てのひらの小説 『シュガーデイ』 乾

てのひらの小説の第二回合評会に参加した作品を採り上げていきます。その第一弾、『シュガーデイ』の登場です。

 

『シュガーデイ』   乾

「あー、テステス。聞こえているかね、スイート街(タウン)の諸君」
 歩道のスピーカーから聞こえてきた声に、道を歩いていた人々が一斉に足を止めた。お祭りごとや非常時のとき以外使われるはずのないスピーカー。そこから聞こえる人の声に人々が首を傾げていると、今度は百貨店の大型モニターや電気屋の展示用テレビが、プツリと音を立てて切り替わった。
 映し出されたのは、ボサボサの髪にしわしわの白衣を身に纏った男。今時珍しいレンズの厚い眼鏡と、だらしなく伸びた前髪のせいで、顔の半分ほどはすっかり隠れてしまっている。それゆえ男の年齢を推定するのは難しいが、かといってとりわけ年を重ねているようでもないようだ。
「あ、博士」
「博士だー」
 人々が画面の男を指して呟く。子供達は嬉しそうに、大人達は楽しそうに、男を見て笑みを溢す。
 それもそのはず、今画面の中に映し出されているのは、この街一番の科学者であり、街一番の変わり者と名高い男。その名をシュガー博士。"シュガー"というのは、いつもお菓子などの甘い物を食べていることからつけられたあだ名であり、本名は誰にもわからない。
 そんな男を映し出す画面に釘付けになる人々。しかしその群衆の中で一人、青ざめた表情で画面に食い入っている青年がいた。
 彼の名は王(ワン)・F・琉(ル)圭(ケイ)。シュガー博士の助手として働いている人物である。
 博士は類い稀なる才能の持ち主であり、ほとんどの学問で博士号を持っているという天才。特に科学者としてはかなり名の知れた人物らしく、故に琉圭は助手にと志願したのだった。しかし、現実はそんなに甘くなかった。己の好奇心を満たすためにはどんな手段も厭わない博士は、かなりの奇人であったのだ。琉圭はほとほと手を焼いていた。ついこの間も、珍しい模様の猫を追いかけて他人の敷地に入ってしまい、不法侵入で警察のお世話になったばかり。相手が博士ということでお咎めはなかったが、警察からは要注意人物とされているため油断はできない。馬鹿と天才は紙一重とは、よく言ったものだった。
「っの人は......!」
 琉圭は一目散に走り出した。もちろん博士のもとへ行くためだ。居場所はおおよそ心当たりが付いている。博士の背後に映っていた建物の造りからして、おそらく時計塔だろう。ここからは距離があるが、走っていけない場所ではない。
「さて、早速だが本題に入ろう。諸君は、何故私がこのような行動を取っているのか、不思議に思っていることだろう。では訊くが、今日は何の日かわかるかね?そう、お菓子の日(スイーツデイ)。この街だけにある祝日だ。諸君は、今日をただの祝日とは思っていないかね?菓子の製造が街の主要産業であるが故に作られたものだと、そう思ってはいないかね?悲しいことだ。本当は、もっと別の、そしてこの街に暮らす我々にとって、重要な意味を持つ日であるというのに!」
 博士がメガホンを持って喋りだした。ざわついていた人々が、いっせいに彼の声に耳を傾ける。
 全力疾走する琉圭の横を、騒ぎを聞きつけた警察とテレビカメラの車が通りすぎた。
「そんな諸君に、少し昔話をしよう。今からおよそ百年、一世紀ほど前のことだ。ある街の外れに、一組の夫婦が店を構えた。二人は自家製のチョコやキャンディを売っていたが、街外れということもあって、商売はあまり上手くいっていなかった。そこで夫婦は考えた。お客が来るのを待つのではなく、自分たちから売りに行けばよいのだと。二人はまず、駅や街頭に立って無償でお菓子を配り始めた。雨の日も、風の日も、雪の日も。すると噂が噂を呼び、お菓子を買ってくれる人が増えてきた。店の方にも、次第にお客が来るようになった。そしていつの間にか、彼等の店は連日長蛇の列ができるほどの人気店へと成長した。仕舞いには弟子入りしてくる菓子職人も現れた。二人の味を学んだ彼等は、その後それを独自の味に発展させ、次々に店を開き始めた。店は五軒、十軒と増えていき、そこに住む人々も増えていった。最初は夫婦二人だけだったその土地は、いつしか活気溢れる街へと変わっていた。やがて国からも正式に認められ、地図にさえ載らなかった場所に新たな街が誕生した。ここまで言えば、もうわかるだろう。つまり、今日、この日が、その街が生まれた日、スイート街が誕生した日なのだ!」
 博士の話に街の人々が響めいた。皆、この事実を知らなかったためである。
 もちろん琉圭も例外ではない。走りながらでもしっかりと博士の話を聴いていた彼は、その内容に驚きを隠せなかった。母や祖母は昔話や言い伝えをよく話してくれる人だが、そのような話は一度も聞いたことがなかったのだ。
 そんな彼等をよそに、博士の演説は続く。
「だが悲しいことだ。今やこの事実を知る者は誰もいない。人々はただ平凡に過ごすばかり。これではあまりにも淋しいではないか、侘びしいではないか。私はこの街が大好きだ。愛している。住人も、動物も、植物も、微生物も空気でさえも、この街にあるもの、生きとし生けるもの全てを愛している!故にこの事態は実に嘆かわしい。夫婦が造り上げたこの街の文化を、この街の軌跡を、住民である我々が忘れてしまっては元も子もあるまい!」
「おい!何をしている!シュガー博士!」
 突然に、野太い声が演説を遮った。
「これはこれはクラッカー刑事。放送を聞いて私に会いに来てくれたのかね?」
 時計塔の真下から、同じようにメガホンを構えている男に向かって、博士はニヤリと笑ってみせた。
 無精髭を生やし、くたびれた背広を羽織った三十代ぐらいの大柄な男。彼は街では有名な刑事であり、博士の次ぐらいには名が通っている。なぜなら、博士が起こす騒ぎや事件のほぼ全ての処理を、彼が担当しているからである。謂わば対博士専用の刑事。琉圭が保護者とするならば、彼は言うことを聞かない生徒に奮闘する担任教師のようなものだった。
「俺の名は"クラッカー"ではない!"クラウン・スタッカー"だ!何度言わせる!」
 もう何十回と言ってきた台詞を、メガホン越しに言い放つクラウン。
 しかし博士も慣れたもので、その余裕の表情を乱すことはない。
「だからクラッカーなのではないか。愛称はその名の通り、対象者への愛が籠もっているのだぞ。素直に喜びたまえ。それに、既に私だけでなく街中の人が君をそう呼んでいるぞ?」
「それはお前のせいだ!お前が性懲りもなく呼び続けるからだろう!......下らないこと言ってないで質問に答えろ!」
 あくまでマイペースを崩さない博士に、クラウンの苛立ちが募る。青筋を立て、ひくひくと口元を引き攣らせている彼に、時計塔を包囲している部下達は、いつ彼の忍耐が限界を迎えるかとひやひやしていた。
 と、その時、不意にクラウンの横から伸びた手が、彼からメガホンを奪い取った。
「何やってんですか博士!さっさと降りてきて下さい!」
 それは、大きく肩で呼吸し、息も絶え絶えな琉圭だった。
「ついこの間、注意をうけたばかりですよ!これ以上警察や街の皆さんに迷惑をかけるのは止めて下さい!」
「おや、この声はワッフル助手かね?」
 琉圭の一喝にも眉一つ動かさない博士。ちなみに、"ワッフル"というのは、博士が付けた琉圭のあだ名である。
「とにかく!早く降りてこい!でなければ、それ相応の手段を取らせて貰うぞ!」
 琉圭はまだ何か言いたそうだったが、クラウンは構わずメガホンをむしり取った。だが依然として時計塔から動こうとしない博士に、クラウンの怒りパラメターはどんどん上昇していく。今にも沸点を超えそうな彼を、周りの部下が必死に押さえ込んでいた。
「まぁまぁ、落ち着きたまえ二人とも。これからとっておきのショーが始まるというのに」
 おもむろに、博士が白衣のポケットから二つのボタンが付いたスイッチを取り出した。
「先程私は、皆にこの街の歴史を忘れないで欲しいという話をした。しかし、悲しきかな、人は忘れる生き物だ。ならばせめて、今日この日ぐらいはこの街を想って欲しい。丁度今日は記念すべき百周年目。故郷への愛を語るにはうってつけの日だ」
 話しながら、博士が手の中のスイッチの一つ目のボタンを押した。
 すると、街の至る所からシューと圧縮された空気の音が聞こえてきた。そして次々に、巨大なバルーンが姿を現したのだ。デパートの屋上から、植え込みの中から、ピンクやブルーのカラフルなバルーンが大空へ飛んでいった。
 状況を理解できず、呆気にとられる人々。琉圭もクラウンも、ただ舞い上がるバルーンを見送ることしかできない。
「だから私は、この胸から溢れんばかりの愛を皆に伝えたい!今日という日に、祝福と感謝の意を込めて、私はここに愛を贈ろう!形を成さないものを伝えるのは難しい!そしてその全てを伝えるのは不可能に等しい!だが想う心は本物だ!」
 博士が二つ目のボタンを押した。途端に、宙に浮いていた数十個のバルーンが、大きな音を立てて弾けた。そして同時に、チョコやキャラメル、ぜりービーンズなどのお菓子が街中に降り注いだ。
 人々の表情が、瞬く間に笑顔に変わる。琉圭も警察も、背後でずっとカメラを回していた報道陣も、このファンタジーな出来事にすっかり毒気を抜かれ、いつの間にか笑みを溢す者さえ現れた。
 街中に歓声が響き、笑顔が溢れた。
「これは大いなるエゴイズムである!そして、大いなる奉仕活動である!街とは人だ!諸君らの笑顔がつまりは街の笑顔なのだ!さぁ、受け取りたまえ!私の愛を!」
 お菓子の生産量、消費量が世界一の小さな街で起きた、大きな事件。
 それはとてもファンタジックで甘い甘い出来事だった。

 数日後、研究所に送られてきた数々のお菓子店からの多額の請求書に、博士が琉圭からこっぴどく叱られたのは、言うまでもない。

                                                               〈 おわり 〉