小説 『ろくでもない人生』

今春卒業生の国語課題研究作品から、日足(ひたる)さんの小説を紹介します。

 

国語課題研究作品

『ろくでもない人生』   日足 (ひたる)

 家の近くの喫茶店は今日もいつも見るメガネをかけたおじさんと、髪を整えていないお姉さん、顔もよく覚えていないような大学生くらいの男の人。それから初めて見る人。よく利いたクーラー、薄暗い照明と、店員以外だれ一人として口を開かないこの場所は毎日のようにわたしをここへと通わせた。天井のほこりが控えめなシャンデリアに照らされている。
 わたしはいつもイヤホンを耳にさして、隅の四人掛けの席で一人でコーヒーを飲む。コーヒーカップのいやにてらてらとひかる赤の口紅は、またわたしを憂うつな気分にさせる。今日は、雨だ。
 
 今朝、ホットケーキのいい匂いで目が覚めて、キッチンに立つ姉が今日は機嫌がいいのと言って焼き立てのホットケーキを出してくれた。離婚が、決まったそうだ。姉は大学を卒業してすぐに十歳年上の人と結婚して子供を産んだ。メールで離婚するつもりだと聞いてからもう五年が経った。そして結婚十年目の今日の午後四時、離婚届けを出しにいくのだと、なにかを(たぶんもう必要なかったものだ)失ったような、妙にすっきりしたような顔で笑った。
 一晩中旦那と話し、娘を見送ってからこの家に来たらしい。ホットケーキを食べながら離婚の経緯を話し終え、実家が一番落ち着くと言ってソファーで眠ってしまった姉は、わたしがいくら揺さぶっても目を覚まさなかった。あるいは、もう話す気がなくて寝たフリをしていたのかもしれない。最後に旦那とした話は、別に離婚の話でもなんでもなく、初めてデートに行った映画の話だと言った。あんなにあの人と盛り上がったのは、何年ぶりかしら、もっと早くにこうやって話せていたらもう少し違った形になっていたのにね、と。
 
 すっかり冷めたコーヒーを飲みきっておかわりを頼んだ。わたしは考えていた。姉と義兄さんは初めてのデートでどんな映画を観たのだろうか。洋画?邦画?ふたりともロマンチックなところがあるから、きっと恋愛ものだろう。
 姉はずいぶんとやせてしまっていた。家を出てからの姉は世界から自分を切り離したようなどこかさみしそうな顔をしていた。たまにきらりと光る白髪も、歳のわりに多い小じわも、生活のストレスからきたものにちがいない。彼女はもともと不幸体質だった。自分を犠牲にしてまでも、他人に尽くすからである。わたしとは正反対のタイプだった。そんな姉だからこそ、幸せになってほしいと思っていたし、結婚も心から祝福していた。義兄さんなら、姉のことを幸福にできると信じていた。
 姉は男運が悪かった。そもそも父親が変な人だった。若いうちに母と離婚した父のことをわたしはあまりよく覚えていないけれど、母から聞いた話によると父は仕事にも行かずお酒ばかり飲んでいるようなろくでもない人だったそうだ。しかし姉はそんな父のことをとても慕っていたという。わたしはその話を母から聞き、幼いながらにわたしならそんなろくでなしにはなつかないのに、と思っていた。姉の男運の悪さというものはそういうところからくるものだった。
 姉の恋人は義兄さんの前にも二人いたけれど、二人ともに姉はなにかしらの方法でずたずたに傷つけられ、そのたびに一週間も寝込んだ。姉には手をよく洗うくせがあった。それは傷ついたときのストレスからくるものだった。だからその失恋ラッシュの間はずっと手が真っ赤で、そのいたいたしそうな様子が、姉のバイト先によく通う義兄さんの目に止まり、声をかけられ、二人の出会いとなった。なんとも皮肉な出会いだと思った。それでもわたしは、そのような優しい義兄さんだから、姉のことをやはり幸せにしてくれるにちがいないと思っていた。
 

 まだ温かいままのコーヒーを少しだけ残して店を出た。駅から一番近いこの喫茶店はもうすぐ人が多くなってくる。そうしたら店には話し声が広がって、あの薄暗いはずの喫茶店は明るくなるのだ。明るくなる前にここを出よう。そう思った。

 雨は少しもやむ気配がなかった。

 信号待ちでトン、と肩を叩かれる。傘を少し傾けて見上げると、目の下にクマを作った義兄さんがほほ笑んでいた。今までにわたしが見てきた義兄さんの顔で一番優しい顔だった。初めてこの人を見たときなんて優しそうに笑う人なんだろうと思ったが、その印象は今でも変わらない。実際に義兄さんは姉と同じように本当にとても優しい人だった。

 わたしたちはさっきわたしがいた喫茶店の近くのファミレスに入った。義兄さんはさっき離婚届けをだしてきたよ、と言った。この喫茶店はわたしがよく行くあの店よりもずっときれいだった。

 オムライスをきれいにスプーンですくいながら、彼はあまりそれを口に運ぼうとしなかった。食欲がないんだ、といった。わたしはきのこの雑炊を食べながら、そう、とだけ答えた。
 
 「娘が産まれてデリケートな時期だから、と気を遣っているうちに距離がわからなくなったんだ。きっと彼女も同じことを考えていたと思う。出会ったときから、僕達の考え方は似ていたからね。この五年間、僕は君の姉さんのことも娘のことも自分なりに愛してきたつもりだ。結婚したことになにも後悔はないよ、離婚については、まだまだこれからだね、もしかしたら、後悔するかもしれない。」
 
 わたしはうなずいた。

 「君の姉さんはとても愛情深い人だよ。若かったからいろんな人の反対があって、それを押し切って結婚したけれど、早くあの家を出たいと言っていた。家族の思い出がたくさんあるここは、とても生きづらいと。君にはきっとなにも言わなかっただろうね。彼女は君のことをとても愛していたよ。もちろん今も、ね。」

 義兄さんはにこりと泣きそうな顔をして笑った。
 愛情深いとはよく言ったものだ。母が病気で亡くなってからわたしたち姉妹は二人で暮らしていたけれど、姉はわたしにとてもよくしてくれた。わたしには見せないように姉はちゃくちゃくとストレスをためていたのだろう。姉のわたしへの愛情は妹に対する愛情ではなかった。自己犠牲からくる他人への優しさだった。  けれどわたしはそんな姉をとても愛しいと思う。たしか以前義兄さんも同じようなことを言っていた気がする。


 たわいもない話をしているうちになんの脈絡もなく義兄さんは少しだけ泣いて、彼女にはもう会わないよ、と言った。まだオムライスは半分も残っているのに、スプーンを置いて、それが彼女のためだ、と。

「こどもと会いたいとは思わないの?」

 義兄さんは少し考えるそぶりを見せてから鼻をすすって、うん、とうなずいた。

「こどもには会いたい。なんなら俺が育てたいくらい。けれど、こどもにはどうしたって母親が必要なんだ。」

 義兄さんと姉はとても似ていると思った。


「俺はなにをまちがえたかな?」
「なにかをまちがえたと思うの?」
「そうじゃないけど...。物事にはすべて正しい形があって、一見間違っているように思えることの中にも正しいことは本当にたくさんあるけれど、きっとそれと同じように、正しいように思えることの中にも間違っていることがたくさんあると思うんだ。本人の意思にかかわらずね。だから俺は離婚しようと思ったんだよ。」

 義兄さんはウェイトレスに残ったオムライスをさげさせ、アイスコーヒーを頼んだ。わたしはもうすでに食べ終えていたので、それといっしょにレモンティーを注文した。

「離婚することが正しいって?」
「そんなところ。結婚することが正しいと思っていたんだ。俺も彼女もお互いを愛していたし、幸せになれると思っていた。その正しさの中にも、間違っていることがあったんだね。」
「幸せじゃなかったの?」
「そうじゃないけど...。」
「さっきからそればっかり。案外いいかげんね。」
「ごめん。きっと俺はいつのまにかとてもつまらない人間になってしまったんだ。」

 そう言って義兄さんは目を伏せてしまった。アイスコーヒーは氷が溶けていた。義兄さんはそのあいだずっとストローの入っていた袋を小さくちぎっていた。こんなに落ち着きのない人ではなかったのに、今日の義兄さんは、義兄さんらしくなかった。ふと窓の外に目を向けると、雨がいっそう強くなっていた。義兄さんの機嫌が悪いのは雨のせいでもあるかもしれない。

「義兄さんはなんだかこのままだめな人間になってしまいそう。」
「君も厳しいことを言うんだね。」
「わたし、義兄さんは本当に優しい人だと思う。でもたまに思うんだけど、その優しさが、いけないのよ。」
「どうして?」

 苦しくなるのよ、と、言う前に義兄さんが口を開いた。

「君は昔俺のことを好きだと言ったね。」
「うん。」
「あの言葉はさみしい俺への優しさじゃなかったの?」
「言っている意味がわからないわ。」
「俺から言わせてみれば君もずいぶんと優しいけれど。」
「まるで優しいことがいけないことかのように話すのね。」
「君が最初に言ったんだろ。」
「違うわ。わたしそんなこと言ってない。そういう意味じゃない。」
「じゃあいったいどういう意味なの?」
「この店のクーラーはあまりきいていないのね。」
「話をそらさないでよ。」
「義兄さんはいい人すぎて、いっしょにいるのがとてもつらいのよ。」
「それははじめて言われた。今もそうなの?」
「うすうす気づいていたくせに。」
「...ごめん。」
「謝らないでよ...。」

 あまりクーラーのきいていない店内はじんわりと暑くて、薄暗くて、気分が悪かった。
 窓にもたれて外を見つめる義兄さんの手をなんとなく軽く握ると、義兄さんは一瞬驚いてからほほえんで、重ねたわたしの手の甲を撫でた。そのゆっくりとした動作がいつもの義兄さんに戻ったようでとても安心した。

 義兄さんのことを好きだったとき、義兄さんは少しさみしそうだった。ちょうど姉が妊娠したときで、そのころわたしはまだ十八で、とても幼かった。なにも知らなかった。
 あのころ姉は手が赤くなるくらい手を洗うようになっていたのに、それがどういうことかもわたしは知っていたのに、ふたりは幸せだと信じていたし、そんなふたりにほんとうにあこがれていた。今思い返せば義兄さんも姉も、あのころはほんとうにさみしそうだった。大きいお腹を抱えた姉の手のひりひりと痛そうな赤を見て、わたしはいったいなにを思っていたのだろう。気づくべきことだったのに。
 ずいぶんと長いあいだそのことを忘れてしまっていた。五年間は本当に長い時間だった。義兄さんのすっかり増えた白髪とか、姉のこじわとか、そういえば、もうこんなにもわたしたちは歳をとってしまった。わたしだけでも気付けていたら、なにか変っていたかもしれない。今朝姉も、同じようなことを言っていたけれど...。

「義兄さん、義兄さんの優しさも、姉さんの優しさも、さみしさからくるんだと思うの。」
「どういう意味?」
「義兄さんは、さみしいと思ったことないの?」
「あるよ。俺はいつからか、もうずっとさみしい。」
「だったら、そのときのことを思い出してみてよ。」
「うん。」
「今がぴったりとあてはまると思わない?」
「うーん...。」
「義兄さん。」
「今日はよくしゃべるね。」
「だって、今日で最後よ?」

 義兄さんは少し驚いた顔をした。

「もう会ってくれないの?」
「会わないわよ。」
「君も厳しい人だね。」

 義兄さんは眉を下げて困ったように笑った。

「俺のこと好きだったんじゃないの?」
「ひっぱるのね。過去の話じゃない。仮にそうだとしたら、なに、姉さんと離婚して、次はわたしってこと?」
「そうじゃないけど...。」
「また言った。」
「ごめん。」
「謝らないでよ。」

 義兄さんに会うのは本当にこれが最後にしよう。

「さみしいから、優しいのかな?それとも逆?」
「さあ...。知らない。」

 義兄さんはコーヒーを飲み干して、肩をもむしぐさをした。義兄さんらしくないしぐさだった。

「あ、見て、晴れたよ。」

 いつのまにか空は明るくなっていた。

                                <了>