大変痛ましい事件が起こりました。「体罰」を苦にした生徒の自殺・・・あってはならない事件です。体罰によって子どもは云う事を聞くふりをする。そのことによって、指導者は体罰への[過信]から「慢心」に溺れてしまう。そして、本来の「教育としての部活動」から逸脱し、「勝利至上主義の部活動」へと変容していく。そのプロセスに、指導者は気付かない。子どもを勝利のための道具と見立て、自分自身の虚栄に突っ走ってしまう。周囲の者も勝利実績のある者に物言えなくなってしまい、・・・黙認する。この悪循環が、今回事件の大きなポイントではないかと思います。私自身も高等学校で15年間にわたり部活動の指導を行ってきました。上記の悪循環に思い当たることもあります。しかし、指導経験を積むことにより、「生徒を枠にはめ込む指導ではなく、指導者が自分の枠を取っ払い、生徒一人ひとりに合った枠を組み立て共に目標に向かって頑張ること」が分かってきます。そのことによって、競技力に関係なく、その生徒一人ひとりの自己肯定感と達成感を指導者として共有できると確信しています。
われわれ支援学校の教職員にとっては、少し縁遠い世界の話かもしれませんが、子どもの指導を行うということでは同じ立場です。支援学校では、個々の児童生徒の実態に応じた指導が行き渡っているようにも見えます。しかし、子どもの実態を十分に理解せず、「自分の枠での指導」に陥っているということはないでしょうか。児童生徒に寄り添いながら、"云うことをきけない"のは何故なのか、どうすればコミュニケーションできるのかを探求することが支援学校教職員の大きな仕事と思います。地道で厳しい仕事ですが、逆に遣り甲斐のある仕事でもあると思います。また、一人ひとりの教職員が地道で厳しい仕事に取り組むとともに、教職員集団としてお互いに支え合うことも大変重要と考えます。誰も完璧な人間はいません。ミスもするし、サボりたい時もあります。そんな時に、良好な人間関係を礎とした、厳しいミスの追及にとどまらない、「どうしてこのミスが起こったのか」を共に考えること、つまり「お互いの謙虚さ」が大切と考えます。私たちは一人ひとり、全く違う環境で全く異なった経験をしています。「相互理解」という言葉は簡単ですが、そんなに簡単に実現できることではありません。そのことを踏まえた上での良好な人間関係を構築することが組織としてめざすべき事のひとつではないかと考えます。