てのひらの小説 『楠の森』 ピカそ 前篇

前回予告した、てのひらの小説の第一弾を、前・後篇に分けてお送りします。 お楽しみください。

 

『 楠の森 』 前篇 (1/2)   ピカそ

 その親子は薄暗い雑木林の中を歩いていた。空は明るいはずだというのに、木々は間に夜の闇のような黒を含んでいる。父親の大きい足と娘の小さい足がさくさくと腐葉土を踏み分け、奥へ奥へと進んでいく。
 まだ小学生高学年くらいだろうか、小さな娘は着慣れない紅の着物の裾に枯葉を引っ掛けながら、父の大きな手を握り、不安で顔を曇らせている。その隣で父親はただ前を睨み続けるだけで何も言おうとはしない。何度かその丸めた頭に木漏れ日が当たっていたが、進むにつれてその回数も減り、空気も冷たくなっていく。どこに行くの、という娘の問いに、
「大丈夫だよ」
 と、はじめて口を開いた父は安心させるように微笑んだ。だが、その目には確かな不安と戸惑いがあり、娘は表情を和らげるどころかますます不安の色を強めてしまった。
 どれだけ歩いただろうか。娘の足袋が泥だらけになったとき、鬱蒼と立ち込めていた木々が急に視界から消え、代わりに巨木が現れた。
 娘にはそれが何の木なのか分からなかったが、後に彼女はそれが楠だと知ることとなる。大の男が十人ほど集い腕を回して、ようやく一周できるのではないだろうか。その大木の傍にはいつも手入れされている、古びているが小奇麗なお堂があり、父親はそこへ足を向けている。彼らがお堂の前で立ち止まると、扉から声が聞こえてきた。
「何用じゃ」
 ガラガラと響くその声に驚いて、娘はキャッと悲鳴を上げる。その手を強く握り、父は凛とした声を張り上げた。
「拙僧、代替わりの承認を主に頂くべく参った」
 すると、独りでにギギィと音を立てて戸が開いた。その奥には深い闇のみがあり、明かりの一つも見えない。娘は昔テレビで放映していた映画を思い出した。真っ暗なトンネルの中に男女が吸い込まれていくシーンでたまらなくなり、大泣きしてしまったことがある。闇の中へ入った男女はもう二度と帰らなかった......。先ほどの声が響いた。
「何じゃあ雪人殿か。主がお待ちだ。ああ、子は入るでないぞ」
 父は娘の手をゆっくりと離すと、弱々しい笑みを浮かべて娘の頭を撫でた。
 娘が行かせまいと必死で袖を掴んだが、父は振り返りもせず、中へと足を踏み入れていく。
後を追おうとした少女の肩を闇から伸びた青白い手が押し返したが、必死で抗う彼女の行動を鬱陶しく思ったのか、しまいには腐葉土へと突き飛ばす。ころころと転がり、
「お父さん!」
 と叫んだ娘の目の前で、無情にも扉は封じられた。
「招かざる者、入るべからず」
 あの声が嘲笑しながら少女へと言った。
 少女の耳に届くのは波の音にも似た、葉と枝を風が強く撫でる音だけだった。そのざわめきの他に少女へ語りかけるものはない。ただ座り込むしかない少女へ、何者かが声を掛けたのはそれからしばらく後であった。
「お嬢ちゃん......お嬢ちゃん......」
 弱々しい掠れた声に驚いた少女は思わず飛び上り、必死で周囲を見回す。
「ここだよ」
 その声によってようやっと彼女は声の主の姿を見つけた。
 それは楠に縛り付けられていた。とても太い注連縄で身を拘束されているだけではなく、胸には青白い光を放つ日本刀が突き刺さっている。父よりもずっと大きく筋肉質な体で、髪は茫々と生えており、そのせいで顔が隠れてしまっている。とても嫌な臭いがする。血と獣の臭いだ。
 伸びすぎた前髪の隙間からのぞいた金色の目が娘を射抜いた。
「痛いンじゃ......この刀を抜いておくれ」
 獣のように鋭い牙が口の間から見える。少女は息を呑んだ。この人は妖怪だ。きっと鬼だ。髪に隠れて見えにくいが、角だって生えているもの。
 人は妖怪や幽霊を怖いと言う。だが、少女は本当に怖いものが生きた人間であるということを知っている。人より少し変わった性格、趣味、体質であれば、人は群れですぐにその人々を攻撃し、その特異性を否定する。途方もなく強い霊感を抱いているこの少女もまた、社会からの攻撃を受けている一人である。
 だからこそ、少女は人間よりも妖怪を信じ、好いている。自分は妖怪同然の存在だと思っていた。父しかいない広い家の中でも、住み着いている妖怪達が小さい頃からの遊び相手だったからだ。
 しかし、それにしてもこの男は不気味だった。本当に刀を抜いて良いのだろうか。迷う少女の目の前で鬼は悲痛な声を出す。
「痛い、早う抜いてくれ」
 刀を抜いてやるだけなら、と娘は決心して近付いた。恐る恐るその柄を小さな手で掴む。すると、驚くべきことに、少し引っ張っただけであっさりとそれは抜けた。妖怪の胸から噴き出したのは赤い血ではなく、刀と同じ青白い光を放つ蜉蝣の群れだ。それに、この鬼が封印から出ることもない。少女はホッと息をついた。手にした刀はボウッと光ると無数の青白い蜉蝣になり、宙へと舞い上がって何処へと飛び去っていく。日本刀はどこにも残されておらず、その重みさえも娘の手から消えてしまっていた。
 妖怪は口の端を吊り上げるようにして笑うと少女へ言った。
「ありがとうよ、綸。いずれ手前には恩を返そう......」
 少女は目を丸くしてこの男を見上げた。
「どうして私の名前を知ってるの?」
「さて、何でだろうねぇ」
 幾らか体力を取り戻せたのか、先ほどよりも軽い声である。妖怪の男はからかうような口調ではぐらかす。また、同じ調子で少女に言う。
「このことは誰にも言ってはいけないよ。さもなければ手前も殺されてしまうからなぁ。妖怪よりも人間の方が怖い......そう思わんか、綸や」
 こくんと少女は頷いた。少しずつこの鬼は悪いものではないと思い始めていた。
 すると、お堂の方から声が聞こえてきた。父の声だ。彼女は急いでお堂の入口へと向かう。戻ってきた娘の姿を見て父親は表情を綻ばせた。
「どこにいたんだ?」
 父の問いに娘は答えた。
「散歩をしていたの。何もなかったけど......」
 嘘がするりと喉から出る。自然な言葉に父も気付かない。

 

  〈 後篇につづく 〉