てのひらの小説 『楠の森』 ピカそ 後篇

 

『 楠の森 』 後篇 (2/2)  ピカそ

※ 前篇からお読みください。 ※

「おいで、綸」
 父と娘は手を繋いだ。今度は離れることもなく、お堂の闇の中へと大小の足が同時に踏み入れられた。すると突然背後でバンッと扉が閉じ、闇の中から幾つもの燭が浮き上がった。
 暗闇が薄れた室内を見回す少女の隣で父は静かに正座をする。真面目で誠実そうな平凡な横顔を蝋燭に灯された火が照らしている。いつも優しい笑みを浮かべているその顔には緊張と不安の色が張り付いていた。
 奥に鎮座する観音像の手前に一人の男が座している。人形のような綺麗な顔には欠点の一つもない。息を呑むような美貌だが、異様な雰囲気を漂わせている。笑みを浮かべて彼は言った。
「小娘をこちらに」
 父は娘の背を押した。
 少女は男の前に歩み出ると、父と同様に正座した。男は冷たい手で彼女の前髪を上げ、もう一方の手を隣へ突き出す。
「筆を」
 何も無かったはずの男の右隣には硯を手にした女が座っていた。彼女は筆を硯に浸すと男へ手渡す。赤い塗料を含んだ筆を右手に、彼は入口付近に座る父へ訊ねた。
「望月の夜に生まれた子であったか」
「はい」
 頷く父の視線の先で、男は筆の先を娘の額に置いた。くすぐったくて笑いそうになった少女が動かないように、着物の女が押さえつけた。男は一つの字を少女の額に書いた。
 月
 終えると筆を女へ渡し、男は少女の澄んだ瞳をのぞき込んだ。
「さて、お前の父親は役目を譲ると言ってきかぬが、お前はどうするつもりだ」
 きょとんとしている少女の顔を見、
「やはり何も伝えておらんか」
 と男は呟いた。彼は一つため息をつくと、渋々といった様子で言う。
「お前の住む寺の北、この山にはあの世とこの世を繋ぐ道がある。お前の父はその道の番人なのだ。我が許可なくこの世へ出る妖怪や幽霊がいないか見張るのが番人の務め。この役目を受けるというのなら、今ここで普通の人間としての一生を捨てることとなる。それでも父の役目を継ぐか?」
 火で照らされた観音像が睨むように娘を見下ろしている。背後から父が固唾をのむ音が聞こえた気がした。
 娘はふとある日の光景を思い出した。いつも父はたった一人で本堂に籠っていて、障子の隙間からのぞき込むと怒られてしまう。その日の客は一人もいないはずなのだが、父はお堂の中で誰かと話し込んでいるようだった。他の僧へと訊ねると、皆口を揃えて言ったものだ。
 お父さんはね、死んだ人や妖怪達の相談を聞いているんだよ。
 少女は観音像の前に座る父の姿が大好きだった。あの優しい横顔が、経を読む声が、広い背中が、全て大好きだった。
「よく考えなさい」
 後ろで父が不安そうに言った。心優しい父親は苦しんでいるに違いない。娘が役目を継ぐと答えるのを望んでいないことなど一目で分かる。しかし、娘は迷わず答えを口にした。
「はい、継ぎます」
 男は意外そうに目を細めたが、すぐに元の表情へと戻る。笑みを浮かべ、彼は静かに腰を上げた。白い狩衣が僅かに音を立てた。
「よろしい。では、役目を娘の綸へ与えよう。目を閉じよ」
 親子は目を閉じた。そして、しばらく後に目を開いてみると、そこはあのお堂の中ではなくなっていた。見慣れた本堂の中である。いつの間にか寺へと戻っていた。
「本当に良かったのか? ちゃんと考えたのか、綸......」
 不安そうな父の顔を見た娘は笑って頷いた。釈然としないようだったが、追求しないことに決めたらしい。父はいつもの笑みを浮かべて立ち上がった。
「ご飯にしよう」
 もう夕食の時間だ。赤くなった空を見る娘の手を握り、父は妖怪達が住む庫裏へと足先を向けた。

 

 夏の暑い日の事だった。高校の課題のため、家の蔵を綸は整理していた。長年人が立ち寄らなかった蔵の中は妖怪達にとって恰好の住処となっており、蜘蛛の巣もあちこちに張り巡らされている。最後に誰かが入ったのは綸が生まれる前だというのだ。鑑定すればかなりの値打ちになりそうな古書やら書物やらが埃と蜘蛛の巣の奥で眠っている。
 荷物を移動させていると、埃が積もった大学ノートが段ボールの隙間からするりと落ちる。綸はそれに気づき、しゃがみこんだ。
「......お父さんの?」
 好奇心に負け、彼女は父のものだったらしい大学ノートを広げた。埃がブワッと舞い散り、思わず咳き込む。しかし、随分古くなったページには彼女にとって恐ろしい事が書き込まれていた。
『封じ込めた悪鬼は手に負えない。絶対に刀の封印を解いてはいけない。森に誰も立ち入らないようにしなければ。あの楠に縛り付けたはいいものの、いつまで封印が持つだろうか。こればかりは僕にも分からない』
 封じ込めた悪鬼? 森に立ち入らないように?
 綸の脳裏には幼い頃に出会った一人の鬼の姿が浮かび上がっていた。確かにこの手で刀を抜いてやった。だが、あれは抜けださなかったじゃないか。あの後も悠長に喋っていたじゃないか。もしあの時点であの鬼が自由になったのだとしたら、真っ先に愚かな小娘を食い殺していたはずだ。
 必死で自分に言い聞かせても、不安で心臓がバクバクと鳴り響く。しまいには綸は恐ろしくなってノートを閉じた。
「探さなきゃ」
 彼女は埃を払うこともせず、蔵の中から飛び出した。真っ赤な夕焼けが森へ駆ける少女の姿を見つめていた。


                                                                      〈 おわり 〉