百人一首から着想を得た創作短編です。
今と昔の恋の詠
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は
ものや思ふと 人の問ふまで
僕は今まで誰かに恋をしたことなんてなかった。
別に興味がなかったわけではないけれど、どこかで僕には関係のないことだと感じていた。朝起きて、電車に乗って学校に行く。学校で勉強して、家に帰って寝る。そんな平凡な日々が僕にはお似合いで、それがずっと続くと思っていた。あの日までは・・・。
僕はその日いつもと同じように学校へ向かった。いつもどおり友達と屋上でご飯を食べ、いつもどおり授業を受けて、いつもどおり家に帰ろうとした。いつもと違ったのは、帰る途中に先生に雑用を押し付けられたことだ。
"旧校舎の図書室の本を新校舎に移動する" これが僕が頼まれた仕事。
面倒だと思いながら、僕は初めて旧校舎に足を踏み入れた。
普段からあまり誰も近づかない旧校舎はとても静かだった。
不気味なほど静かなその空間は僕にはなんだか心地よかった。
誰にも邪魔されない静かな時間を味わうように、ぼくはいつもよりもゆっくりとした足取りで図書館へと向かった。
たどり着いた図書室は僕の想像よりもはるかに大きくとても趣があった。
図書館の中には沢山の本が棚いっぱいに並んでいる。
その光景は圧巻で、まるで異世界にでも迷い込んだかのようだった。
僕は本来の目的も忘れ、ふらふらと図書室の奥へと進んだ。
その図書室の雰囲気に魅せられていた僕の目に映り込んできたのは一人の少女だった。
図書館の奥、窓際の机。長い黒髪をたなびかせながら、じっと本の世界に浸っている彼女はとてもきれいで思わず目を惹かれてしまった。
夕日に照らされた彼女の横顔を眺めていると、彼女は僕の存在に気が付き、本から僕へと視線を移した。
目が合った瞬間に僕の心臓はドクンと高鳴った。
今まで静かだったのが嘘みたいに僕の心臓の音がうるさいくらいに響いていた。
「どうしたんですか?」
彼女の声で我に返った僕は本来の目的を思い出した。
「本を何冊か新校舎に移さないといけなくて・・・。」
「じゃあ私も手伝います。」
そう言って彼女は本を閉じ僕の隣に立った。
ただ黙々と作業をしていた僕たちに会話はほとんど無かったけれど、なんだかとても充実した時間だった気がする。
彼女のことが頭から離れないまま、僕は帰路についた。
あの日以来、僕は何度か本の移動を頼まれるようになった。
図書館に向かうといつも彼女がいて一緒に作業をしてくれる。
最初は会話も無かったけれど、何度か会ううちに色々な話をするようになった。
彼女は僕と同じ二年生なこと、昼休みと放課後は毎日図書室にいること、彼女も静かな旧校舎の雰囲気に惹かれて図書室に通うようになったことなどを教えてくれた。
お互いの好きな本やおすすめの本を紹介しあったりもした。
話せば話すほどもっといろんな彼女を知りたくなって、もっともっと話したくなる。
いつしか僕は図書室に行くのが楽しみになっていた。
彼女と一緒にいる時間は何をしている時よりも楽しくて、すごく幸せな気持ちになる。
本を読む彼女の横顔を眺めていると、胸がギュッと締め付けられるような気持ちになる。
彼女の瞳が僕を映す時、ドキドキしてつい目をそらしてしまう。
彼女が笑顔を向けてくれたとき、これ以上ないほど満ち足りた気持ちになる。
ああ、これが恋なんだ・・・。
僕はここで初めて自分の気持ちの正体に気が付いた。
まさか僕が恋をするなんて・・・!
驚きながらも、この甘酸っぱい気持ちも悪くないものだと思った。
でもこれは僕の"初恋"
なんだか気恥ずかしくて、誰にもばれたくない。まして本人になんて・・・。
それにこの恋が彼女にばれてしまったら、もう話すこともできないかもしれない。
そんなこと僕は耐えられない。
だからこの気持ちは誰にもばれないよう心の中にしまっておこうと決めたんだ。
でも僕は思っていた以上に顔に出やすいらしい。
決心してすぐ、友達には「前から思ってたけど、好きな子でもできた?」なんて言われてしまった。
まさか友達に気づかれてしまうほど彼女のことを好きになってたなんて・・・!
彼女への気持ちはずっと隠し通そうと思ってた。
でも一緒に過ごすうちに周りにも気づかれてしまうくらい、彼女への気持ちは大きくなって顔に出てしまう。
もっと彼女と話したいのにこのままでは彼女にも僕の気持ちがばれてしまいそう。
ああ、僕はどうしたらいいんだろう。
そんなことを思いながら、僕は今日も図書室へ・・・。
あとがき
この歌は百人一首の四十首目、平兼盛の歌です。
知っている人がほとんどだと言われるほど有名な歌で、日本の恋の歌の代表格のような存在です。
村上天皇の前で行われた歌合せのとき、"忍ぶ恋"というお題で壬生忠見(みぶのただみ)の「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか」という歌との二首で優劣を競い合いました。
この二首はどちらも素晴らしく甲乙がつけがたかったため判定に困ったそうです。しかし最終的に天皇が「忍ぶれど」の歌を口ずさんだことで勝負が決まりこの歌が勝ちになったそうです。
逆説的な方法で抑えきれない切ない気持ちを歌っているこの歌には共感できる人も多いのでは・・・?
平 兼盛 ( ~990)
*光孝天皇のひ孫・篤行王の三男
*平氏の名乗り 従五位上・駿河守となった
*後撰集の頃の代表的な歌人
*三十六歌仙の一人
訳
「あの人を想う気持ちを誰にも知られないようにと、じっと包み隠してきましたがとうとう隠しきれず、顔色に出てしまいました。恋に悩んでいるのですかと人から聞かれるまでに・・・。」
(了) ②の2につづく