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平成元年から1990年へ          Tone-Stone-Milestone 3

 念願の教員採用試験に合格。最初の赴任校へ。多くの叶えたかったことの一つ、陸上部の顧問になること。走高跳の選手を育てたかった。様々な要因からマットが燃えたことがあるという理由で走高跳は禁止されていた。何度も体育科と交渉し、スパイクを履かないことと使用した後は必ずきれいに汚れをふき取ることを条件に認めてもらった。(依然、昭和の流れ)

 最終的にはここで出会った一年生3人とのマット運び、練習、お掃除が3年間続くことになる。その中の一人が唯一高校から始めたにもかかわらず近畿大会に2度出場し8位、9位の成績を収めた。全国大会には届かなかったものの0から始め、重いマットを汚さないように運びながら、ひたすら追い続けられた夢は大きかった。

 1990年、念願の一つである担任を持つ。クラスを開いて一週間。問題行動が起こり、家庭訪問。母は何度も同様のことを起こすことに当惑していると告げながら迎えてくれた。壁にもたれかかって天井を見上げながら、「大人なんて誰も信じへんからな。」最初に投げられた言葉。「信じへんでいいよ。勝手に君(ここの2人称は違う表現をした)のことを思ってるから。」これが初めて交わした言葉だった。夜中に母から電話が入り(携帯のない時代である。)公園で見つけて、朝まで話をして学校に連れて行った。3年生でも担任をもち、以前お話ししたクラスの一員として卒業式の日に「信じられる大人がいてよかった」という言葉をもらった。

 彼女の出席番号のすぐ後ろの生徒は人懐っこくよく話をしてくれた。母親と年が離れていてお互いの理解が難しいと言っていた。家庭訪問で親子での話ができるよう関係をつなごうとするが、いつも途中から私の存在がないものとなった。生徒の思い、母親の思い。どちらもわかり、どちらにも言い分があった。                                                 最終的には2年生の最後に学校に留まることを断念した。30年近い時が流れ結婚式の招待状が届く。その時(高校時代)から追っかけていたバンドのメンバーとの結婚だ。ミナミのライブハウスが式の会場。一番前の席に招待され、スピーチする機会を得た。スピーチ後母親から、「不躾ですが、親孝行な娘です。先生がずっと言ってくれていた優しい娘です。お会いできて、直接お伝えできて良かったです。」と声を届けてもらった。

 今、先生方から同じことをしてもいいですか?しなきゃならないですか?と問われたらいずれの質問にも答えはおそらくNoだろう。Yesは選択しづらい。