何度も心の中でこの言葉が渦巻いた。おそらく自分がいるその状況では、「聞き漏らすまい」が正しい日本語だ。でも何度も「見逃すまい」を心の声として聴いた。
舞台に多くの人がいる。世代を超え、時代を越え、多くの力が結集している。自分が10代のころに心躍らせて聞いた曲がStageで奏でられている。きっとみんなの心の中に描かれている風景や景色は違うだろうに、演奏され、届く音には一つの主張があるように感じられた。
「感じ漏らすまい」おそらく私の近くに座っていた人たちは涙を拭きながらメモを取っている私を奇妙な人だと思っていたに違いない。一瞬も油断がならなかった。舞台上で人々が交し合っている想いのやり取り。見えない、当然言葉も聞こえない。お互いが、この瞬間を愛おしみながら、慈しみながら、大切に時間を共有しているこの様子を感じ漏らすことができない。
第3部の土越さんの指揮の時に労わり、労いあいながら会場全体を抱く演奏に包み込まれた。土越氏のこれ以上できっこない柔らかな動き、呼応するように息遣いが聞こえるような管楽器が届けてくれる音。柔らかな動きよ止まらないで、吹く息を止めないでと祈るような気持ちで演奏の最後まで舞台を見つめ続けた。そうしないと後悔する気がした。
人と人が出合い、時間と空間を共有し、目標に向かって歩んでいくことが、言葉ではとても表すことができないPerformance となる。第44回吹奏楽部定期演奏会が示し、そう、伝えてくれた。
演奏は始まると後戻りできない。ただただ前を向いてひたむきに息を吹き込み、爪弾き、打ち,叩き、止める、その営みに引き込まれた。見逃すまい、そう思って会場にいたがきっとすべてを感じることはできなかったろう。
3月は多くのものを受け入れ、あとに残し、4月へとつながっていく。さよならとおはようございますは隣りあわせだ。ありがとうを携えてさよならを告げたい。さようなら、いい演奏をありがとう。とびっきりのおはようございますとつながりますように!いい4月となりますように!