平成元年、初任者としての赴任。育った町の高校。少し勉強が苦手な部分もあり、何となく一生懸命やるのは「怠い」と感じることもある。教科をきっちり教えることが本義なのに学校の楽しさや、来ることを喜んでもらえるために何が必要かばかりを考えていた。
体育祭は応援団のダンス以外はあまり興味がなく隅っこで野球をやっていたり、文化祭ではカラオケ機材を借りて教室で好きな人だけで歌ったり、みんなで何かを創り出すのはどこか億劫だという空気があちらこちらで醸し出されていた。
4年め、体育祭でブロック全員が参加する(団演技)時間最低1分が実現し、文化祭でも演劇が増えた。生徒会選挙は選挙管理委員長がしきり、立会演説会は教師が前に出ることはなくなった。この年から3回応援団の係をし、社会的に認められない行為を諫めながら、全員参加の体育祭を続けた。20世紀も終わりに近づく1998年、オーストラリア渡航直前の年に4回目の応援団担当。ちょっとやんちゃな生徒と約束事を決め準備を進めた。踊りの練習過程で様々なことが起こる。先生方は近隣の住人の方々の声に注意を傾けており、何かが起こるたびに体育祭の中止を示唆した。
残念ながら決定的なことが起こった。詳細はここでは記せないが、継続はぐんと難しい状況となった。当然、懸命にやってきた応援団員は中止になることは受け入れられない。先生方はルールを守れない生徒に行事は任せられないと考えている。当該の団長が、係の私と話をしに来た。謝罪に行きたいという。詳細は語れないが、謝罪の場では罵詈雑言が投げつけられた。本人は自分に非があることはわかっているので、正座して、こぶしを握り締めて頭を下げていたが、私が責められた時には、顔をこわばらせた。本人の頭を再度、押さえ,ひたすら詫びた。たくさんの言葉を受け止め、どうすればいいか話し合った。翌日、応援団長以下団員を集め、本人からの謝罪、そして鼻からピアスをとり、そこにいる全員に同じことを求めた。遅刻、欠席をせず、みんなで協力して校内美化に力を注ぐことを促した。もう4半世紀以上前の話だ。先生方が渋々認めた体育祭はマスゲームの要素も取り入れる素晴らしい出来となった。その時にメッセージとして送った漢字「輝」は廃校になった学校のHPで今も記されている。
新校を立ち上げた時のエリア海外研修も感染症や不穏な国際情勢を乗り越えられた。タイでのテロ行為のため、行き先を北海道に変えた以外、できる限りすべての生徒の思いを実現してきたことが自分の教師としての誇りであり、矜持でもあった。
お日様の光を浴びながらリハーサルの出発を待つ生徒たちの笑顔。極寒の中、50Kmの下見へと出かける生徒たち、雨の中、帰ってくる妙見委員幹部。行事の開始、終了の度に成果の振り返り、次へ向けての課題の確認をしてくれた各行事の委員のメンバーたちと交わす「次は妙見ですね」という言葉を何度も届けてもらっていた。係の先生方とのやり取りの中、何度もみんなの思いを考えるうえで、苦しんだに違いない。参加予定の生徒たちの中で、最初に中止の決断を受け止めなければならなかった幹部のメンバーは、その知らせを聞いた一時間後に校長室を訪れ、話をしてくれた。私の言葉を一つひとつ受け止め、伝統の重みとつなぐことの大切さについてそれぞれが語ってくれた。大きな心で包んでくれる一人ひとりの言葉に、私は言葉を失った。言葉が大切だと思って生きてきた自分には届けられる言葉が何もなかった。「ごめんなさい」と「ありがとう」だけが残された。
「糸」の力と以前に書いた。言葉にすると、「詰まる」、「諦める」。その言葉たちは糸の力を借りれば「結ぶ」と「締まる」になる。歴史と伝統を繋ごうとしている人たちの力に支えられている。少し止まって「歩」を進める姿に、「ありがとう、力を」としか添えられないが、いっしょに歩いていこう。曲がりくねった道を。