師走。12月。走る前に必ずいただける機会。授業の見学。折に触れて少しずつ本ブログの中でもお示ししてきましたが、できれば今月(つまり、今年)中に機会をくださった先生方、快く迎えてくれた生徒のみなさんへの感謝も込めて、少し綴れればと思っています。先生方がご準備いただいた時間や生徒のみなさんが向き合っている時間を思うと少し不遜にも感じますが思うところを述べさせてほしいと思います。
各教科、科目の授業を拝見して、心が豊かになりました。それは巧妙、精巧に作り上げられた授業、そして時にそれを越えて挑んでくる生徒の姿。予定調和の与えられた答えだけをもらって満足することに飽き足らない生徒のみなさんの姿勢に驚きと喜びを感じました。(同時に、思っているようにいかない戸惑い、理解が及ばない苦しみについても受け止めました。)
気候区分について学びながらそこでの人々の生活に思いを馳せる。風、海流、降水量、自然がもたらす様々な現象とその結果、人間と自然が共有できる生の営みについて学び、文化というものの形成過程を知る。
さまざまな文化背景を持った人々が、例えば19世紀のヨーロッパに焦点を当てて織りなされる様々な陰謀、好むと好まざるにもかかわらず、巻き込み、巻き込まれながら歴史が動いていく。スポットが当てられるところはもちろんだが、まつわって思想や信条などについて時間、空間軸を越えて縦横無尽に語られ、示される内容は息をのむことを許さないほどの重厚さと深淵さがうかがえる。
歴史の1ページの中でその主人公が何を思ったか、例えば木曽義仲と今井四郎のやり取りを解釈しながらその息遣いを感じたり、韓愈の師説の中で今も変わらず大切にされているコト、時代の変化と共に移ろいゆくコトなどを味わう時間、機会が与えられている。
時代を縦串で貫きながら、和歌を生徒のみなさんの発表、先生の解釈を通じて理解を深めていく。最後に「今」示されている和歌を味わいながら、表現者たり得ることへの興味も引き出されています。
名作と言われる純文学を鑑賞していく際には、先生方も自らをさらけ出しながら奮闘されている様子に授業が終わった瞬間、見学だけしかしていないこちらまで疲れ切るという経験もありました。
日本語教師としてオーストラリアに赴任する前、3か月の東京外国語大学での研修時、「日本語文法の授業もいいけれど、ちゃんと歴史を知って海外に行ってくださいよ」と叱咤激励されたことがまさしく1年半の滞在で随所に心に響き渡ることが多々ありました。
国際舞台で活躍することが当たり前の時代に、高校時代にありとあらゆることに触れられることに大きな意義があると感じました。まだ、全貌を語るには至りませんが、ほんの一端のご紹介です。