注意の仕方

校長 片山 造

 中学生のある日、上履きのかかとを踏みつぶして廊下を歩いていると、生徒指導の先生に呼び止められ、こう注意された。「○○、靴職人が靴を履く人のことを思っていちばん心を砕くのがどこかわかるか?それはかかとだ。そのかかとをお前は踏んでいる」と。私はそれから今に至るまでかかとを踏めなくなった。もし「かかとを踏むのはダメだろ」と注意され、理解できない「正しさ」を振りかざされただけだったなら、こうはなっていなかったと思う。

(NHKディレクター 伊集院 要さん著「ばっちゃん」より)

 ここ福泉で担任をしていたクラスに、言うことを聞かない生徒Aがいた。私がなにか伝えるたび返ってくる言葉は、「それは先生の考えやろ、納得いかん」だった。そんなやりとりが数カ月続いたある日、答えに窮してAに「おれが嫌やから嫌なんじゃ」と言ってしまった。すると、Aは「そうか、それは仕方ないな。わかった」すんなり受け入れてくれた。頭であれこれ考えて策を弄するのではなく、ストレートな気持ちをぶつけたのが伝わったようだ。

(教員は生徒に対して)「指導」という名のもとに、常に最善の答えを繰り出そうと苦心する。もちろん、それは尊く大切なこと。しかし、人として(思いを伝えること)があってもよいような気がする。