徳川家康の朱印状

遡ること約400年前、徳川家康はオランダとの通商を公式に許可しました。

そのときの朱印状の写しが、オランダのハーグにある国立文書館に所蔵されているそうです。

このたび、北修爾同窓会(豊陵会)会長から本校に、ハーグの国立文書館に所蔵されているものの複製を寄贈していただきました。

一昨年の2009年は、家康がオランダ東インド会社に対し、朱印状の貿易を許可し、日蘭交易が始まって400周年の記念の年でした。

北会長が経営されている会社は、オランダにも会社を設けていることもあり、日蘭交流400周年の行事に協力され、

そのお返しとしてオランダ大使館からこの朱印状の写しをいだかれたそうです。3年生の日本史の授業に持っていき、実際に生徒に見せています。

 北会長ありがとうございました。朱印状の内容については、本校の新規採用者である奥田教諭(日本史)が解説を付けてくれました。 

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【翻刻】

 おらんた船日本江渡海之時何之

 浦ニ雖為着岸不可有相違候

 向後守此旨無実儀可被往来

 聊疎意有間敷候也以如件

 

 慶長拾四年七月廿五日

 (印)

         ちゃくすくるうんへいけ(カ)

 

【書き下し文】

 おらんだ船日本へ渡海の時、何れの

 浦に着岸せしむるといえども、相違あるべからず候。

 向後、此の旨を守り、実偽無く往来せらるべし。

 いささか疎意あるまじくそうろうなり。以てくだんのごとし。

 慶長十四年七月二十五日

 (印)

【現代語訳】

 おらんだ船が日本へ渡航してくる時には、どこの

 浦へ着岸するとしても、相違のないようにすること。

 今後はこの趣旨を守り、実儀なく往来されるように。

 少しも疎意はあってはならない。以上の通りである。

 

 慶長十四年(一六一〇)七月二五日

 (朱印)

【解説】

慶長五年(一六〇〇)にオランダ船リーフデ号が豊後国(大分県)臼杵に漂着した。これを契機として、いわゆる鎖国政策を行なっていた江戸幕府が、長崎にてオランダとの通商を行なうこととなる。本点は慶長十四年に出された徳川家康の朱印状(写カ)である。これをもってオランダとの通商が正式に許可され、長崎の出島にはオランダ商館が置かれた。