緑風冠高校の周囲の歴史⑧

いつも、ブログをお読みいただきましてありがとうございます。緑風冠高校の周囲の歴史を紹介するブログも8回目になりました。

今回は、深野新田と洪水、そして地域の対策についてです。

学校の住所は大東市深野4丁目です。もともとこの地は河内湖と形容されるほどの湖沼の地域で、古い地図を見ると少し南の場所に「草香江」と書いてあります。「くさかえ」と読めるので、この地名から現在の東大阪の「日下(くさか)」があるのだと思われます。河内湖も江戸時代くらいから順々に開発が進み、最後に残ったものが深野池であります。学校の所在地の深野は、かつて深野新田とよばれており深野池の開拓地でした。江戸時代の書である河内国名鑑に野崎観音についての記述がありますが、「野崎観音堂から、ふかうの池を見おろし、よき景なり」とあるように、いまとはまったく違う風景であったことがわかります。きっと大きく湖面が広がり、ところどころに島や田畑があったのでしょう。

開拓が進んでいきましたが、この地は標高は2mとかなり低く、大阪府最後の水害と言われる昭和47年の時は、大東高校の1年目であり運動場が水びたしになったと記録があります。

当時の写真を見ると、学校の西側にある寝屋川あたりには葦や柳の茂みが伺えますが、大東市史を読むと、この大きな被害となった水害だけでなく、この場所では何度も洪水があったようです。

そして、学校の近くにある住宅からも、その対策をしていたことを伺うことができます。

昔からありそうな倉は写真のとおり、何段にもなっており高床であることがわかります。

やがて築堤工事などが行われ、現在のような約2mの堤防が築きあげられ、現在のように景観が一変しました。その後、片町線(現在の学研都市線)の電化や市街地の開発がすすみ、現在の大阪のベッドタウンの大東市となり、今のような住宅地が学校の周囲にできました。

それでも、50年程前のことなので学校の周囲の昔からある家や倉などがまだ残っており、当時のことを偲ばせるものがあります。

緑風冠高校は15年目になりますが、かつての大東高校からですと50年近くになります。これからも周囲は変わっていくことでしょうが、緑風冠高校の豊かな緑の環境はそのままであって欲しいと願っています。

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